晩夏の空とサハリン州郷土博物館(2017.08.25)

もう直ぐ9月です。

サハリンでというより、ロシア全般である程度共通したイメージでもあると思われますが、9月には学校の新学期が始まり、“夏休み”が終わってしまうことから「8月末」は「夏の終わり」というイメージが在るようです。

先日も、テレビのニュース番組で傷ましい交通事故を伝えていた内容の中、ナレーションをしていたレポーターは「夏の最後の週末に傷ましい事故です」と表現していました。事故のニュースを残念だと思いながら視ていた他方、そういう本筋と関係の無いことが気になってしまいました。

「夏の終わり」と言われて、何か一日の中で「曇り→雨→晴れ→曇り→雨」という具合に天候が変わり易くなっているので「“秋”の傾向?」と思うことも多く在ります。他方、天候が好転して陽射しに空気が温められて25℃近くになって「多少暑い…」と思える日が8月の下旬に至って少々多い感がして、何やら「しつこい夏?」とか「夏の残滓?」というようにも思います。

↓考えてみれば「8月最後の金曜日」であった日、午後の時間帯で、夕方の陽が傾いた感じが強めって行く前の時間帯です。
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↑「色画用紙?」のような空の蒼の上に、腕の良いイラストレーターが白い塗料とエアブラシで丁寧に描き込んだかのような立体感溢れる雲が適度に拡がり、所謂“石州瓦”の赤茶色を帯びたサハリン州郷土博物館の屋根が凄く映える感じです。

「綺麗な光景!」と惹かれるようにサハリン州郷土博物館に近寄ったのですが、多少驚きました。閉館間際な時間帯であったのですが、敷地内に人が溢れていました。「何か、夕刻に催し?」とも思いましたが、その種の告知や、何かをやろうとしているような様子も見受けられません。

博物館の敷地に人が溢れていたのは、「結婚式等の記念撮影を行おう」という人達が大勢居たからでした。ユジノサハリンスク市内の名所で、ドレスの新婦とスーツの新郎を中心に、一族や友人が集まって写真を撮っている光景を時々視掛けます。博物館の建物前は、そういう記念撮影をしようという人達の間では人気が高い場所と見受けられます。

「好天の8月最後の週末」となったこの日は、多くの人達が新郎新婦の門出を祝そうと集まっていて、記念撮影をしていたのでしょう。様子を視ていると“順番待ち”な状態になっていて、幾つものグループが入れ替わり立ち代わりで建物前に陣取って、カメラを手にした撮影役が小走りに一同と建物が収まる位置に動いて写真を撮っています。

日本国内でも「地元の名所で結婚の記念写真を撮る」という例は恐らく在るとは思いますが、このユジノサハリンスクの「サハリン州郷土博物館の前」のように「“順番待ち”が発生」という程度に盛んでもないような気がします。

そういう様子を視ながらも、空と雲と屋根の感じを眺めていました。

ポポヴィチ通の舗装工事(2017.08.30)

ユジノサハリンスクでは時々「空気がほんの少し冷たい?」と思う場合も在るようになりました。「夏へ向かっているのか?」というように思えた6月頃、「少し一日の中での気温差が大きい?」と思えたことが在ったのですが、そういう感覚の日がまた見受けられるようになった気がします。

ポポヴィチ通は、交通量が非常に多いレーニン通とミール通とに交差する通ですが、何となく「脇道」という風情が漂う通です。住宅や、住宅の建物に店舗やオフィスが入っている場所が連なっています。そしてカフェも幾つか見受けられます。

↓朝の静かなポポヴィチ通で、何やら湯気が立って賑やかな様子が見受けられました。
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↑舗装を改修する工事が行われています。

ミール通に通じる東寄りから、レーニン通に通じる西側へ、何日も掛けて順次工事が行われています。画の辺りは「もう直ぐレーニン通」という感じの、レーニン通に面していていつも賑わっているスーパーが近い辺りです。

左側に、アスファルトを路面に敷く赤い特殊車両が在って、その上に現場のリーダーと見受けられる人が佇んでいます。蛍光の黄色やオレンジのベストを来た作業員達がスコップを手に動き回っていて、ロードローラーが往来しています。

「こういうような道路工事…稚内では余り視ないような気もする」と思いながら何となく視ていました。ユジノサハリンスクでは春から最近まで、随分と多くこういうような場面を視掛けました。

ところで画に集合住宅の建物が写っていますが、壁に広告バナーが掲出されています。右側の青いモノは<統一ロシア>という政党のモノです。9月10日に選挙が在ることから、それに向けて投票を呼び掛ける広報という訳です。最近は、こういう選挙関係のモノも―投票日が近いからでしょうが―多く視掛けます。

コムソモリスカヤ通の工事(2017.08.25)

↓4月に工事中の箇所を眼に留め、何か「荒涼とした感じ」になっていて驚いたという経過が在りました。
>>「工事中」のコムソモリスカヤ通(2017.04.24)

「ロシア正教会」ということで、サハリンを紹介する資料によく写真が出ている<復活主教座聖堂>に近い、ユジノサハリンスク市街のやや東寄りを南北に延びるコムソモリスカヤ通の一部が、トタン板の塀のようなモノで囲われてしまっていて、車輛の通行も出来ない状態が続いていました。

↓未だ車輛の通行は停まったままですが、以前の舗装を剥がして掘り起こしてしまっていた状態を想うと、かなり「道路らしい」感じが戻っていました。
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↑この箇所の工事については「昼夜兼行で行われていた」という噂も耳にしました。

ユジノサハリンスク市内では、道路そのものの改修や、地下に埋設されている様々な管や機器の改修、或いは集合住宅の周辺や歩道の整備等、実に多くの工事が並行していて、現在も何やら工事をやっている状況が多く見受けられます。が、次第に落ち着いているような感じもします。

ところで、8月下旬に至ってユジノサハリンスクでは日中の気温が24℃や25℃になり、陽射しが強めで気温以上に暑い感じがする日が多くなっているような気もします。

金属製フォルダと耐熱硝子のグラス=「ロシアの流儀」な温かい飲物を頂く容器(2017.08.26&28)

国外では「一見して何か判り悪いモノ」に時々出会います。

↓こういうモノに出会いました。
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↑金属製で持ち手も付いた、一見するとカップのようですが、カップとして使い易い形状とも思い悪いモノです。液体を注げば漏れてしまうであろう“孔”も側面に見受けられます。

↓これはこういう具合に使用します。金属製のモノは、グラスを嵌めるフォルダです。
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↑耐熱硝子のグラスをスポンと嵌めて、グラスの方に温かい飲物を注いで頂くための容器として利用するのです。

サハリンで温かい飲物を頂く場合、普通のマグカップのようなモノも多用していますし、フォルダに嵌めているグラスをそのまま使っている場合も見受けられます。が、何時頃からどういう経過で普及したのかは判りませんが、「金属製フォルダと耐熱硝子のグラス」という組み合わせも見受けられます。

正直に言えば、グラスをそのまま使って温かい飲物を頂く場合には「少々グラスが熱い…持ち悪い…」場合も在ります。金属製フォルダにグラスが嵌めて在れば、温かい飲物をそのまま啜って頂くことがやり易くなります。

画のグラスは、筆者が住まいでコーヒーを淹れて頂こうと用意して愛用しているモノです。ロシア製らしい、少々無骨にも見えるグラスですが、随分以前からロシアの食堂等で視掛けるような代物で大変に気に入っています。金属製のフォルダが登場し、益々グラスが利用し易くなると喜んでいます。

金属製フォルダは、「サハリン鉄道のオリジナル」と見受けられる代物です。これは1100ルーブルでした。この種のモノは何処でも幅広い価格帯ですが、手の込んだ細工のモノなので、妥当な価格だと思いました。

ユジノサハリンスクからコルサコフへの「土日の朝のみ運行」という列車が在ります。一度乗車した際には驚く程に空いていましたが、二度目に乗車した際には「コルサコフ地区での催事の会場への連絡バスと接続」ということが在ったらしく、4輛編成のディーゼルカーの列車がそれなりに賑わっていました。そうなると、車内販売が登場します。その車内販売の係がよく在るミネラルウォーターやスナック菓子と併せて、「皆様、サハリン旅行の記念に如何でしょうか」と勧めながらこの金属製フォルダを販売していました。

ロシアの「双頭の鷲」の紋章等が見受けられるフォルダですが、正面に「САХАЛИН」(サハリン)の文字と島々の地図、そして列車の画に、「東の島々」をシンボライズする朝陽のような画も入っています。車内販売の係が「どうぞ御覧になって下さい」とこれを見せてくれたのですが、視て直ぐ気に入って「いくら?」と尋ねて購入してしまいました。

↓実際に使用すると、こういう感じになります。
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↑“トゥルカ”という道具で淹れたコーヒーをグラスに注いで頂きました。

グラス単独でコーヒーを頂く場合と「中身」は何ら変わりませんが、「サハリン鉄道のオリジナル」と見受けられるフォルダにグラスが嵌っている状態で頂くと、「少しだけ中身が高級に?」という「気がしてしまう」のが不思議です。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 08:32Comment(0)モノ

「電磁調理器」と「トゥルカ」(2017.08.22)

7月に稚内からサハリンへやって来た方にお尋ね頂きました。

「一般の住宅で、料理をするような時はどうやっているのだろう?料理の方法ということではなく、稚内であればLPガスのガスコンロが多くて、札幌や東京の様な大都市圏では都市ガスのガスコンロが多いと思うのだが…」ということでした。

「でも…料理に縁が薄そうな暮らしぶりな様子だから…難しいことを尋ねてしまった」と実に「御明察!!」な言葉も継いで頂きました。実際、筆者はパン等を買って来るのでもなければ、外で食事を愉しむ場合が殆どです。(稚内に居ても、状況に大差は在りません。)

それでも住まいに料理等に使えるモノは備えられています。

↓こういうモノが在るのです。
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↑所謂「電磁調理器」です。何処でもこういうモノを使っているとも思いませんが、存外に普及しているのかもしれません。

ダイヤルを捻って少しだけ経つと、丸くなっている“指定位置”が赤く発光し、その箇所が熱くなります。そこに鍋でも載せれば加熱される訳です。

画のように、鍋を載せる箇所が赤く発光していて、熱くなっているので鍋の中身が湧いています。

画に写っている小さな鍋は少し奇妙なモノかもしれませんが、これは「トゥルカ」と呼ばれているモノです。トルコやカフカース地方でコーヒーを淹れる際に使う道具で、ロシアでも一定程度ポピュラーなモノです。

「トゥルカ」には“エスプレッソ”を淹れる場合に使うような「極細挽き」のコーヒーを容れて、(好みで砂糖も加え、)水を注いで温めます。そうするとコーヒーが「湧く」のです。カップに注いで頂くのは、「湧いたコーヒーの上澄み」という感じになります。

日本国内でよく視掛けるような、「ハンドドリップでコーヒーを淹れる用具」は、ユジノサハリンスクでは売られているのを殆ど視掛けていません。「在る場所」に行けば在るのかもしれませんが。そこで、近所の店―正しく普通のスーパーの一隅、食器等の台所食卓用品が在ったコーナーに並んでいました。―で「トゥルカ」を入手してみて愛用しているのです。750ルーブルと、「一寸したお楽しみ」で常用するモノとしては過ぎる程に手頃な価格で入手出来ました。

ということで、筆者の住まいに備えられた電磁調理器は、専ら「トゥルカ」に利用されるばかりではあります。これまで、筆者は旅行等で滞在した街は多岐に亘りますが、長短の期間を問わずに「住んだ」経過が在る稚内、札幌、東京、モスクワは何れも何らかの型でのガスのコンロを使うようになっていました。こんな電磁調理器を使用したのは、ユジノサハリンスク滞在で初めて経験することです。
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<МОРОЖЕНОЕ "Пломбир" - №1 в РОССИИ>=「“プロンビール”アイスクリーム - ロシアで一番」(2017.08.23)

ユジノサハリンスクでは「ズルズルとクールな感じが続いて、そのうちに多少肌寒くなって、何時の間にか辺りの木が紅葉し始めて…」というように思える状態が続いていたものの、8月下旬に入って「多少…暑い…」と思えるような、「陽射しがやや眩しい中で25℃程度に気温が上昇する」という日が見受けられるようになっています。

こういうようになると、何となくアイスクリームが恋しくなります。

ユジノサハリンスクでは、とりあえず“夏季”と言い得る時季になって以降、戸外にスタンドが設けられてアイスクリームを売っているという様子は随分視掛けますし、飲食店のメニューにもアイスクリームは視掛けます。そしてスーパーや商店でも広く販売されています。

↓「アイスクリームが欲しい!」と近所のスーパーで求めてみました。
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↑ブランド名は<48コペイカ>というようです。何時の時代かは承知しませんが、昔は「48コペイカでアイスクリームを求めたものだ」(※100コペイカ=1ルーブル)というようなことで考えられた名称なのでしょう。

“プロンビール”アイスクリームというのは、フランス語に由来する呼称のようで、「ナポレオン3世(※“第二帝政”の皇帝だった時期は1852年から1870年。日本史で言えば幕末から明治の初め頃。)の時代にロシアに伝わった」という、ミルクや卵等の材料で作るシンプルな「昔ながらのアイスクリーム」ということのようです。“プロンビール”という語は、アイスクリームの商品名に入って使われている例が多く見受けられるようです。更に、一部にはアイスクリームを売りにするカフェの屋号に用いられている例も大都市では在るらしいです。

スーパーで、日本国内のスーパーやコンビニにも見受けられるような、アイスクリームを容れた冷凍ケースから取り出してこの<МОРОЖЕНОЕ "Пломбир" - №1 в РОССИИ>=「“プロンビール”アイスクリーム - ロシアで一番」を求めました。<48コペイカ>というブランド名ですが、価格は153ルーブルでした。袋に刷られた容量を視れば「210g/420ml」と在ったので、なかなかにボリュームが在ると思います。

↓多少期待して袋を開けると、何やら「バター?」というモノが出て来ました。
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↑「210g/420ml」という容量のアイスクリームが、用紙に包まれているようです。

↓用紙を外すと、中にアイスクリームの塊です。
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↑面倒なので、スプーンを取り出して、このままな感じで頂きました。

日本国内でも色々な具合でアイスクリームが販売されていますが、こういうように「用紙に包んだモノを袋に入れて」という方式なのは視た記憶が在りません。

「МОРОЖЕНОЕ」(マロージェナヤ)=アイスクリームは、一定以上の年代の人達にとっては「幼少の頃に“こんなに美味しいモノが在ったんだ!”という驚き、感動と共に頂いた」という強い思い入れが在るモノであるようです。そして、世代を問わずに愛されるモノでもあります。戸外で売られていて、辺りで頂いている方達を視掛けることも少なくはないですが、中には明らかに「お祖母ちゃん、お母さん、お孫さん」という雰囲気の家族連れが「3世代全員が揃って頂いている」というような、文字どおりに「世代を超えて愉しむ」という様子も視掛けます。

それにしても、慣れないと「やや不思議?」にも視える包装のアイスクリームでしたが、なかなかに美味しいもので、「小さなお楽しみ」がまた増えた感じです。

ミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ総督胸像(2017.08.15)

コルサコフ市の“コルサコフ”は人名で、姓です。

クラシック音楽が好きな方であれば、ロシアの作曲家で「リムスキー=コルサコフ」という姓に聞き覚えが在るかもしれません。バレエ音楽の『シェエラザード』等で知られるリムスキー=コルサコフの姓は、“リムスキー”という姓と“コルサコフ”という姓が組み合わさったものであるそうです。

というように“コルサコフ”は人の姓なのですが、ここで誰のことを示すのかと言えば「ミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ(Корсаков, Михаил Семёнович)(1826 - 1871)」のことです。

↓コルサコフ市の“コルサコフ”は、このミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフに因むもので、街の広場に胸像が設置されています。
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↑胸像は1993年に「建都140年記念」ということで広場に設置されたものであるとのことです。

コルサコフでは「1853年にネヴェリスコイ提督らが、この地に“ムラヴィヨフスキー哨所”を開いた」ことを「街の起こり」と考えています。これは当時の東シベリア総督であったムラヴィヨフに因む命名でした。この“ムラヴィヨフスキー哨所”は、クリミア戦争等の事由で運営出来なくなり、1854年に一旦閉じてしまいます。そして1869年に復活しました。その際、改めて東シベリア総督であったミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフに因んで“コルサコフスキー哨所”と命名したのでした。

この1869年の“コルサコフスキー哨所”が転じて“コルサコフ”という呼び方が辺りの地名として定着し、日露戦争後に日本領となるまでコルサコフとして知られていました。第2次大戦後にソ連化された際、このコルサコフという呼称を再度使うことになり、現在に至っています。

考えてみると、日本では「地名が姓になった」という例は多いように思いますが、「姓が地名になった」という例は然程思い当たらない気がします。他方、ロシアでは「誰かの姓が地名に」という例は多いようです。

「街の名に因む人物」ということで、コルサコフ総督の胸像が据えられた広場は、花壇も多く設えられ、一寸したスポーツに興じる人達、散策をしたり休んだりする人達が多く見受けられる場所になっています。

граффити(グラフィティ)またはстрит арт(ストリート アルト)と呼ばれるモノが登場(2017.08.09 & 22)

ユジノサハリンスク市の北西側にダリネエー(Дальнее)という場所が在ります。運行系統#81の路線バスで街の北西側に進むと“終点”に相当するような地域です。因みに、そのダリネエーから#81のバスに乗れば、街の中を南下し、大型商業施設の<シティーモール>の辺りに出られます。

ダリネエー(Дальнее)は、日露戦争末期の1905年に樺太上陸作戦を敢行した日本軍と駐留していたロシア軍との間で戦闘が生じた舞台だったという歴史も在ります。樺太時代には、その戦闘で戦死した指揮官の名に因み、辺りは西久保と呼ばれるようになっていました。ソ連化以降はダリネエー(Дальнее)に復しています。

ダリネエー(Дальнее)はユジノサハリンスクの「近郊住宅街」という趣で、比較的新しい集合住宅が並んでいるような場所です。夕方、レーニン通辺りで#81の路線バスを視掛けると、ダリネエーの側、北西へ進む方のバスばかりが「帰宅する人達」と見受けられる乗客で酷く混み合っているように視えます。時間帯や「踏切を通過する事情」も在るので、レーニン通の州立図書館や美術館が在るような辺りからの路線バスでの所要時間は一定でもないのですが、20分程度の場所がダリネエーです。2002年頃に1700人台だった地区の人口が、10年程経た2013年には2000人台になっているらしく、「人口が漸増する新興住宅地」という雰囲気です。

↓そのダリネエーにこういうモノが登場したのは7月末のことでした。
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↑集合住宅の建物側面の壁に、流麗な書体の文字が大胆に書き込まれました。「文字を書く」というよりも「文字から起こしたデザインを描く」と表現すべきでしょうか。

<Возлюби Дальнего Своего>(ヴォズリュビー ダーリニェヴォ スヴァエヴォ―)と流麗な書体で描かれています。何やら色々な“掛詞”的な含意が感じられるが「ダリネエ―を愛せよ」というようなこと、「自身の過去や未来を愛せよ」というようなことでしょうか?

この種のモノはграффити(グラフィティ)またはстрит арт(ストリート アルト)と呼ばれるのですが、これは「住宅街等の壁をアートで飾ろう」ということを主唱するデザイナー達が、何やら大袈裟にも見える高所作業車をダリネエーの<ピェールヴァヤ・モスコーフスカヤ通>の静かな住宅街に持ち込んで作業を進めたので、「一寸した話題」になりました。

その後、「建物管理の見地で、こういう具合に壁に画を描くことが許されるのか、否か?」という話しも出たようですが、「眼に愉しいので好いじゃないか!」という声も高まりました。

「住宅街等の壁をアートで飾ろう」ということを主唱するデザイナー達の側では、写真とデザイン画を合成した“制作構想”のようなモノも発表して推進を目指したようですが、そのうちに「こういう構想を支持したい」とする州議会議員や市議会議員も現れるようになったようです。やがて夕刻に住民を集めて、プロジェクターでデザイン画を壁に映写してみるようなこともする「構想説明会」のようなものまで催されました。

こうした<Возлюби Дальнего Своего>(ヴォズリュビー ダーリニェヴォ スヴァエヴォ―)に端を発する動きは、地元テレビ局のニュース情報番組で随時紹介されていましたが、最近になって更に動きました。

↓“第2弾”が登場しました。
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↑<ピェールヴァヤ・モスコーフスカヤ通>という辺りの住所は、由来は判りませんが“モスクワ”の形容詞を使っています。それに因んで、モスクワの有名な<聖ワシーリー寺院>と、“実物”もその間近に視える<クレムリン>の塔を象ったデザインが描き込まれたのです。

<聖ワシーリー寺院>と<クレムリン>の形を、「線だけで単純化して、それでも実物の形が思い浮かぶ」ような感じで描いたモノで、テレビで視てから気になってしまい、実物を眺めに行ったのでした。

ダリネエーのграффити(グラフィティ)またはстрит арт(ストリート アルト)の“第2弾”が登場したことを伝えるテレビ番組のコンテンツの中で、コメントしている方が在りました。その方は「ソ連時代にも共同住宅の建物壁にモザイクが施され、“あの画の建物”というように言っていた例は在った。そういうようなモノの、最近の流儀がこういうようにアーティストがデザインして画を描くというようなことのように思う」としていました。

↓新たに画が入った建物を、少し引いた感じで視ると画のようになります。
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↑壁の真中辺りの下側に、何かの機器のようなモノを収めたような部分が在るのですが、その辺りに<クレムリン>の塔の入口辺りに見え隠れしている、警備任務に就いている兵士を思わせる画が入っている“遊び”に笑ってしまいました。

最近、ユジノサハリンスクでは「街のデザイン」というような問題意識が高まっているようにも見受けられます。そうした中、「住宅街等の壁をアートで飾ろう」ということを主唱するデザイナー達が一石を投じ、本当に一つの小さな地区でその動きが拡がり始めました。今後もこの場所や、場合によって他の場所でこの種のモノが登場するかもしれません。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:00Comment(0)カルチャー

「在コルサコフ日本領事館」の遺構と<コルサコフ修道院>(2017.08.15)

1875年に<樺太・千島交換条約>が締結され、サハリン全土がロシアの帰属ということになった時、条約条文に「全魯西亜皇帝陛下ハ日本政府ヨリ“コルサコフ”港へ其領事官又ハ領事兼任ノ吏員ヲ置クノ権理ヲ認可ス」(ロシア皇帝は、日本政府によってコルサコフ港に領事または領事事務を取り扱う吏員を配置する権利を認める)と在ったことから、<在コルサコフ日本領事館>の開設を目指します。1876年4月1日付の開設とし、実際には最初の領事が着任出来た6月9日に開館したそうです。

当時のサハリン南部には、日本人が色々な仕事をする、所謂「出稼ぎ」が多く見受けられ、そうした日本人の保護のために領事館の開設を急いだようです。当初は、人の動きが活発な4月から9月の間に開館するようにしていたそうです。

この領事館に在勤していた日本人に関しては、1890年にサハリンを訪れている作家のチェーホフが接触していたと伝わります。チェーホフは北部の、ロシア領サハリンの中心的な街でもあったアレクサンドロフスク・サハリンスキーをサハリン滞在の前半で拠点にしますが、後半は船でコルサコフ港へ移動し、コルサコフを拠点にして活動しています。

当時の日本領事館はアイヌの集落の名でもある<クシュンコタン>と呼び習わされていた、現在のコルサコフ市域の中で最も古くから拓けていた地区に在りましたが、チェーホフもその地区の住居を借りて滞在していて、日本の領事館員達とは「御近所」でもあったようです。

<クシュンコタン>と呼び習わされていた、現在のコルサコフ市域の中で最も古くから拓けていた地区は、ユジノサハリンスク側からコルサコフへ向かう場合は、“市街”という雰囲気が始まるような、「街の入口に近い側」に相当します。鉄道施設が在る様子や、ロシア最大手石油会社の<ロスネフチ>のガソリンスタンドが視えているような辺りで道路を1本入ると視える辺りに往年の日本領事館が在ったと伝わります。都市間の路線バスでコルサコフへ向かっても、下車出来る場所が近くに在ります。(サハリンのバス停に多く見受けられるのですが、停留所名が不明瞭ではあります。)

↓その日本領事館の「遺構」と伝わる石垣が現在でも在ります。残念ながら、石垣は「往時のモノの一部」に留まっています。それでも「日本の流儀による石の積み方?」という雰囲気は何となく判ります。
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↑石垣の向こうには、「ロシア正教関係の建物?」と見受けられる施設が覗いています。

日本領事館の遺構であると伝えられる石垣の脇に門柱が据えられ、金属製の柵のような門扉も在ります。が、確り締めて外来者の出入を阻んでいるというのでもありません。車輛は勝手に敷地へ進入出来ませんが、人は普通に出入りできるような具合になっていました。

一部のロシア正教の施設に関しては、何か凄く長い、複数の呼称が在るような事例も在って、何と呼べば好いのか困ってしまう場合も見受けられます。この石垣の向こうに覗く施設についても、門柱の左右に在る看板を視て、そういう「判り悪い…」例に該当すると思いましたが、とりあえずここは<コルサコフ修道院>と称する機構の一部で、聖堂になっているようです。

来訪者が中を覗いても差支えが無い様子なので、中に入ってみました。

↓花が色々と咲いている庭園風な設えの場所に、御伽噺の世界のような建物が建っていて、少し足を停めて眺めていました。
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↑後から建物に入って、掲出されていたモノを視る限り、1996年頃から建物を順次整えて現在に至るまで活動を続けている施設のようです。

↓中には礼拝を行う施設が設えられています。
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↑礼拝を行う場所の天井が低いので、建物の入口に視える塔のような構造物は後から設えられたのだと思われました。

綺麗な場所なので、何となくこの場所でのんびりしてしまいましたが、お祈りに訪れる人達が散見しました。序でに、礼拝を行う聖堂の直ぐ隣には聖書や正教に関する書籍や色々なモノを売る売店も在りました。

この日本領事館の遺構であると伝えられる石垣については、コルサコフ歴史郷土博物館の館長さんによる市内案内に同行した際に御話を聴きました。「ロシアはもとより、色々な国々で多くの人に知られたロシアの作家が、隣国日本の人達と友好的に交流をしていたという出来事が、当地コルサコフで在ったというのが嬉しいと思う」と仰っていたのですが、これには大賛成です。そしてそこは、「心の平安を求める」というような施設になっていて、設えられた庭に季節の花が咲いていて美しい様子が視られます。

Панкейки(パンケーキ)(2017.08.20)

“カフェ”と一口に言っても、色々な雰囲気の場所が在ります。

ユジノサハリンスクでは“カフェ”と言えば<Кафе>(カフェー)とか<Кафейня>(カフェーイニャ)という看板が上がっています。

と言って、<Кафе>(カフェー)と看板が上がっている店の中には、寧ろ「○○料理屋さん」という趣き、「食事を愉しむ場所」というように認識したい場所も多く在ります。<Кафейня>(カフェーイニャ)という看板の店に関しては、日本国内でも新旧様々なスタイルが見受けられる“喫茶”というイメージに近い場合が多いような気がします。

殊に休日の空いている時間には、「カフェで過ごす一時」が心地好く思える場合が在り、筆者は稚内ではそういう過ごし方をするのを好んでいますが、その種の行動パターンはユジノサハリンスクに在っても然程変わるでもありません。

ユジノサハリンスクのカフェでコーヒーを愉しむ場合ですが、多くの店で何らかのマシーンが据えられていて、エスプレッソ、カプチーノ、ラッテ、普通のコーヒー等の種類から選んでお願いする型になります。最近は何となく、稚内の少し歴史が在る喫茶店で視掛けるサイフォンで淹れたコーヒーや、稚内の自宅で愉しんでいたハンドドリップで淹れたコーヒーが少々懐かしくなる場合も無いではありません。が、どういう訳か<アメリカーノ>、一部の店で<ルシアーノ>と呼んでいる、ユジノサハリンスク等で一般的な普通のコーヒーは、濃い感じでなかなかに美味しいものです。

カフェではコーヒー以外に、一寸したモノを頂くというのが非常に楽しい訳です。

↓先日頂いたモノがこれです。
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↑「Панкейки」とメニューに在って、「何のことだ?」と思いながらお願いすると「パンケーキ」、日本国内では寧ろ「ホットケーキ」と呼ばれているモノに他なりませんでした。

様々なスタイルのカフェが在りますが、このПанкейки(パンケーキ)が登場した店は、「お揃い=ユニフォーム」に視えるシャツとエプロンの店員さん達が居て、客席に陣取ると彼らがメニューを持って来てくれて、少し経てばまた「御注文を伺います」と登場し、何か御願いすれば「お待たせしました」とモノを席まで運んでくれる感じです。

サハリンで、或いはロシアでは“ブリヌイ”というモノがポピュラーで、蜂蜜やジャム類を脇に添えて登場し、それらを点けながら頂くのがよく見受けられます。このПанкейки(パンケーキ)ですが、「“ブリヌイ”が出て来る時のようなイメージ」でプレートに載せられています。

Панкейки(パンケーキ)に関して、ロシア国内では「американские блинчики」(アメリカンスキエ・ブリンチキ)、「アメリカ流のブリヌイ」と紹介される場合も在るらしく、そういう事情で「“ブリヌイ”が出て来る時のようなイメージ」で供されているのかもしれません。

今般の Панкейки(パンケーキ)を頂いた店では、蜂蜜の他、ベリー系の果実を使ったジャムが添えられていました。蜂蜜にしても、ジャムにしても「サハリンの人達が如何にも好みそうな…」という感じのモノでした。

Панкейки(パンケーキ)そのものは、「米国由来らしい」と受け止められている“外来”ながらも、その頂き方は“地元流”が採り入れられていることになります。「食べるモノ」というのは、実はそういう事例が多いのかもしれません。