生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)

アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着し、押さえてあった宿に荷物を置くことを念頭に、宿の住所を探そうとする中、バスターミナルから緩やかな上り坂を進めば、直ぐに「少し凝った型?」の屋根が眼に留まりました。

↓通から視れば、こういうように視えます。
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↑丁度、敷地への入口辺りの門が開いていたので、その辺りに佇んで「不思議な型の屋根?」と建物を眺め入ってしまいました。

これはロシア正教の寺院で、「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というそうです。“寺院”を意味する“Храм”(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方です。

「生神女」(しょうしんじょ)とは、正教で言う「神の母」という意味の用語です。カトリック等で言う「聖母マリア」というような概念とは少し定義が違うようで、日本でも活動しているロシア正教会では「生神女」と言っているようです。

↓ここに着いた時は、寺院への参拝を受け付けている土曜日の午前中だったことから、敷地に入ってみました。通に面していない側に出入口が設けられていて、寺院の正式名称のプレートも掲出されています。
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この寺院は、1993年から建設して現在に至っているとのことです。サハリン各地で見受けられる事例ですが、“ポストソ連”とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中での建設であったと見受けられます。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この寺院は「復興」と考えられているかもしれません。博物館等に古い写真が展示されていますが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設されたという立派な寺院が在りました。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだといいます。そして1930年に、用地を他用途に振り向けるべく建物は取り壊されてしまいました。

永い年月を経て、体制も変わった中で1993年に現在の建物の建設ということになって行きます。取り壊されてしまった寺院は、現在の建物が在る場所に在ったのだといいます。そういう意味で「復興」というようにも見受けられるのです。

↓それにしても、色々と組み合わさったような不思議な形状の屋根です。
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↑往年の寺院ですが、そちらの方も不思議な形状の屋根でしたから、現在の建物を設計した際にもそのイメージを大切にしたのかもしれません。

「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を“復興”という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ということのように想像しますが、当初は屋根の上に金色に輝く“クーポル”というモノが冠せられておらず、建設後に少し時日を経た2010年に登場したと聞きました。

↓屋根の外観は不思議な型ですが、屋根の下に形成されている堂内の空間は、この種のロシア正教の寺院としては普通な感じでした。
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サハリンでのこの種のロシア正教関係の施設ですが、現在視られる建物は「1990年代以降」のモノです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの「間違いなく、嘗ても寺院が在った場所に建つ」という事例は、やや少ないように見受けられます。他方、積極的に地域で活動をしていて、一定の存在感を示しているというイメージの場所も多く見受けられます。

↓午後に至り、少し離れた場所から独特な建物外観を眺めました。
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ソ連体制化の1930年に姿を消し、1993年に新たに登場したという経過の在る、独特な形状の建物をアレクサンドロフスク・サハリンスキー滞在の限られた時間の中で何度も眺めることになりました。

ジョンキェル岬の灯台を望む(2017.09.23)

外国の世界地図帳で、稚内の眼前に広がる「宗谷海峡」の名を頼りに、馴染んでいる北海道辺りの記述を視てみようというようなことを考えて索引に目を通すと、「宗谷海峡」という名が見付からない場合が殆どです。「宗谷海峡」は、欧州諸国等では「ラ・ペルーズ海峡」として知られているからです。

ラ・ペルーズはフランスの海軍士官で、世界周航を目指した人物です。1787年に日本海を北上してサハリン周辺からカムチャッカに至っていて、その時に幾つかの場所にフランスの人名に由来する地名を与えています。そうした情報は、カムチャッカ寄港時に下船した人物が陸路でフランスに帰国して伝えています。その地名が、現在でも受け継がれている例が幾つも在ります。

↓そういうことも在って、サハリンでもラ・ペルーズは「サハリンの様子を広く伝える活躍をした人達の一人」と認識されているようで、恐らくフランスの人達から贈られたモノと見受けられますが、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館にもプレートが飾られています。
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↑稚内の宗谷岬にも、宗谷海峡を欧州諸国等に紹介することとなったラ・ペルーズの事績を伝える記念碑が設けられており、これと同様なプレートが使用されています。

サハリン近海では、ラ・ペルーズ海峡の他にも、宗谷岬の対岸でサハリン島南端のクリリオン岬、ネベリスクの沖に浮かぶモネロン島、大陸側になりますが、現在ではサハリンからパイプラインで送り出されている石油を積出す港が設けられていることで知られているデ・カストリが、「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」として知られています。

が、アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」が在ります。それが「ジョンキェル岬」です。「ジョンキェル」は“Жонкиер”とか“Жонкьер”というような、「どういうように読む?」と思えるような綴り方になっています。

ジョンキェルという人物はラ・ペルーズよりも前の世代の人物ですが、ラ・ペルーズの同郷人でフランス南西部のアルビ出身です。海軍士官出身で<ヌーヴェル・フランス>と呼ばれていた北米植民地―現在のカナダのケベック州から米国のルイジアナ州にまで至る広範な地域でした。―の総督と務めていた人物です。因みにラ・ペルーズの経歴を視ると、彼は1754年から1763年の<7年戦争>に従軍し、北米で活動を行った経過も在ります。

このジョンキェルの名を冠した岬は、アレクサンドロフスク・サハリンスキーと南隣のドゥエという集落との間に在り、往来の利便性を向上させるために流刑囚が工事に従事してトンネルを掘った経過が在ります。アレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在したチェーホフも通っているという場所です。

ジョンキェル岬は、<三兄弟>の岩が視える海岸を南側に少し進んだ辺りで、流刑囚が掘ったというトンネルの入口も海岸に佇めば視えます。が、訪ねたタイミングが満潮かそれに近い状態であったようで、途中の海岸が海面下となって訪ねることが出来ませんでした。

訪ねられなかったのが非常に残念でしたが、とりあえずその日の夜を明かすために押さえた宿に引揚げ、タクシーをお願いして夕刻の暗くなってしまう前に訪ねてみることにしたのでした。

宿の人がタクシーの受付―何人かのドライバーの携帯電話であるようでした。2回か3回電話を架けて、応答が在った箇所と話しを始めていました。―に電話連絡を取ってくれました。電話をした際に「“ホテル”ですが…」と言って、それで話しが通じてしまう状況でした。宿には<ホテル トリ・ブラター>と景勝地の<三兄弟>を意味する立派な名前も在るのですが、街に「ホテル」と名が付く場所は結局そこだけであるようでした。

とりあえず「午後5時に…」ということにしていて、多少遅れましたがタクシーは現れました。ドゥエという南隣の集落を訪ねる場合の片道が500ルーブルだというので、それに準じる型の往復1000ルーブルということでお話しが纏まりました。

「灯台を視に行って、写真を撮りたい」と言えば、タクシーの運転手さんは説明してくれました。「車で本当に灯台の間近に行くことは困難だ。灯台そのものの場所に上がる、車が上がる道路は無い。が、灯台と海を見渡す高台であれば行くことが出来る。但し、一般車輛が通行可能な道路の端に車は停めて、特殊な車輛でもなければ入り悪い脇道を少々歩かなければならない。歩くのは100mとか200mという次元だと思う」ということでした。「それは大変に結構!行こう!!」とアレクサンドロフスク・サハリンスキーの街中から発車しました。

傾いた陽からの独特な光線を受ける中、街の西寄りから山道に入り、ループを描くように上下しながら、また車は砂埃を巻き上げながら進み、脇に入る小路が在る場所まで進みました。30分弱は乗車していたような気がします。

運転手さんは一緒に車を下りて、「灯台と海を見渡す高台」へ案内してくれました。少し風が強く、それがやや冷たい、西日に光る海が視える、足元が悪い辺りに至りました。「ここだね…こっちに多少進めるが、行き過ぎない方が好い…自分は車で待つから…お気を付けて…」と運転手さんは引揚げ「かたじけない…」と彼の背中を見送りました。

↓その風にも負けず、足元がやや悪いとも思える中で眼下に視た光景です。
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↑断崖と、断崖に貼り付くような草や木と、砂浜に岩や海と、空や流れる雲が独特な傾く陽が放つ光線の中に浮かび上がる様です。画の中に、現場で感じた風が流れているような気さえします。

↓ジョンキェル岬の灯台は1864年―日本史では幕末の頃でかの<池田屋事件>や<蛤御門の変>が在った頃。世界史では米国の南北戦争の時期。―創建で、2013年に自然災害で壊れてしまった後に再建されたのだといいます。
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↑創建年次を想うと、チェーホフがアレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在した1890年には、既に灯台が在ったということになります。実はユジノサハリンスクの<A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館>でも、灯台のことは紹介されています。往時は完全に木造の建物だったようですが。

↓或いは、間近に寄る以上に「うゎっ!」と驚きの声が上がってしまうような雰囲気が在る風景だったかもしれません。
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暫らく写真を撮った後、運転手さんが待つ道路の端に引揚げ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街へ戻りました。

今般のアレクサンドロフスク・サハリンスキー訪問では、とにかく天候には恵まれました。「海岸を歩いて灯台へ」というのは、在るのか無いのか判らない“次”への課題ということで、とにかく「観られて善かったぁ!」という光景に出くわすことが叶ったのは大変に幸いでした。

<第22回 極東・東シベリア日本語弁論大会>(2017.09.28)

5月に日本語弁論大会が在って、サハリンには「存外に多くの日本語学習者が居る」ということを実感したということが在ったのですが、今般は「モスクワで10月28日に開催される、ロシア全土を含むCIS諸国の日本語学習者による日本語弁論大会への予選」を兼ねる型となる<第22回 極東・東シベリア日本語弁論大会>がユジノサハリンスク市内のサハリン国立大学で催されることになり、会場へ足を運んでみました。

所謂“極東”と呼ばれる地域では、ユジノサハリンスクの他、ウラジオストクとハバロフスクに日本国総領事館が設けられています。この3つの日本国総領事館が管轄する区域が、ロシアの用語では「極東・東シベリア」と呼ばれる地域になります。この地域の各大学等に日本国総領事館、国際交流基金等が協力して、この日本語弁論大会は催されています。

この3つの日本国総領事館が管轄する区域で日本語を学ぶ大学生を対象に<極東・東シベリア日本語弁論大会>が1996年から催されているといいます。大会は、ユジノサハリンスク、ウラジオストク、ハバロフスクと概ね持ち回りで開催されており、ユジノサハリンスクでの開催は8回目で、サハリンの学生は過去の大会には全て出場した経過が在るということです。今般の<第22回 極東・東シベリア日本語弁論大会>は、西はイルクーツクから、東はサハリンまでの7大学から11名の学生が出場しました。

開会の際には、今回の大会開催を担ったサハリン国立大学を代表して副学長、運営に協力している日本国総領事館や国際交流基金を代表して駐ユジノサハリンスク総領事、更にサハリン州政府の教育担当省、経済発展担当省から各々の代表が挨拶に立ちましたが、口々に述べていたのは「日ロ関係が活性化し、首脳会談も頻繁に行われている昨今の情勢下、互いの国民が理解を深めることを助けるであろう互いの言語を学ぶ意義」ということや、「日本語を学ぶ大会出場者のような学生達が、日ロ関係の未来を担うことが期待出来る」ということでした。

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弁論大会の内容ですが、各出場者の持ち時間は5分間以内でスピーチを行います。これに関して、時間を超過してしまうような出場者は見受けられませんでした。各々のスピーチの後、2人の質問者が問いを発し、出場者はそれに応答を行うということになります。

途中の休憩を挟み、11名の出場者が次々とスピーチを行いました。大学2年生が1人居て、他は大学3年生と4年生でした。ユジノサハリンスクでは小中学校や高校に相当する機関で日本語を学習している事例も見受けられるので、大学在学期間以上の学習歴を持つ学生も在るとは見受けられますが、それにしても「数年間の日本語学習なのか?」と少し驚くレベルのスピーチが続きました。

極大雑把に言えば、スピーチの内容は、個々人の人生の在り方のようなことを論じる内容、文化交流のようなことの意義や大切さを論じる内容というものに大別出来たような感じでした。純粋に「言葉の表現」ということでもなく、個々人の人生に関することや文化交流に関することに関して「語りたい内容」を工夫して纏めることに配意している、或いはそういう「大切と思うテーマを話して伝える」ということを積み重ねている結果として出て来るスピーチのようで、どの出場者のものも興味深く傾聴しました。

文化交流関係な中身で第2位になった学生は、自国で代表的な家庭の味の一つように考えられているボルシチに対し、神戸を訪ねて出会ったお好み焼きは日本の関西方面での代表的な家庭の味の一つであり、ボルシチもお好み焼きも別な国や地域で何処となく似ている料理が在ることに驚くとしながら、国境を越えて愛されるような料理のテーブルを囲んで色々な人達が判り合おうとするようなことが大切であると話していました。

個々人の人生の在り方のようなことを論じる内容で第1位になった学生は、「“今”を愉しむ努力をしているであろうか?」、「“目標”へ向かっている努力を“愉しむ”ということをしているだろうか?」という問いを発し、「諦めない限り、挫折ということなど在り得ない」と「自身の“メイン”」になることを探す生き方を探りたいとしていました。

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こうした普遍性が高いテーマを、学生達にとっては「大学で学ぶ“外国語”」である日本語で堂々と語っていた様子に頼もしさを感じました。

他方、質疑応答に関しては、5月のサハリンの大会でも感じられましたが、多少難しい場合も在ったようです。大会終了時の審査員講評の中では、「緊張して難しく考えている?」という話題が在り、更に「判らない場合には、“それは判らない。何故なら…”という応え方というのも在り得る」というお話しが出ました。こういう、多くの人が注視する場面での質疑応答は、「外国語弁論大会」というようなことではなくても少し難しい場合が無いでもないように見受けられますが、少しためになるお話しだとも思いました。

審査結果が出るまでの時間を利用し、ユジノサハリンスク市内の幼稚園の児童による日本語劇や、児童生徒による日本語詩暗誦大会も在りました。

幼稚園児の日本語劇は<コロボック>という童話で、あばあさんが作って、おじいさんが食べようとした所から転がって逃げ出したお団子の“コロボック”が森の中を転がり続け、ウサギ、オオカミ、クマに出会って食べられずに逃れ続けるものの、最後は狡賢いキツネに食べられてしまうというお話しでした。凄く堂々としたナレーター担当の児童や、主役の“コロボック”を演じた児童や、巧みに“コロボック”をだますキツネを熱演していた児童の様子が記憶に残りましたが、これは大喝采でした。この幼稚園では、日本語劇の活動をこれからも続けるということでした。

児童生徒による日本語詩暗証大会は7名の出場でしたが、『猫ふんじゃった』の歌詞を取上げている児童が目立ちました。何れも可愛らしいパフォーマンスで大喝采でした。2人のペアで踊りながら歌っていた児童が優勝しました。

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ここで驚いたのは、小学6年生位に相当する年齢の児童が『徒然草』の冒頭部分の暗誦をしたことでした。日本の児童生徒で、その位の学年で『徒然草』を紐解いている例は、恐らく希だと思います。ロシアでも日本研究を盛んに行って来た経過が在り、色々な文学作品等が紹介はされているのだと思われますが、それにしても「小6の児童が日本語で『徒然草』」は驚きました。

サハリンに滞在中の日本関係者、出場者の家族や友人や各地の大学関係者、会場となっているサハリン国立大学の学生や教員が大勢会場にやって来て、“立ち見”が出る時間帯も見受けられた程度に盛況、テレビや新聞等の取材も色々と入っていたような中で<第22回 極東・東シベリア日本語弁論大会>は行われていました。

入賞は逃していますが、一つ心動かされたスピーチが在りました。「負けを恐れず、勝ちに拘泥しない」という哲学を美しいと感じていて、弁論大会に出場してその話しをしたものの優勝を逃し、打ち込んで来た活動に身が入らなくなり、3ヶ月間程度もそうした活動から遠ざかったとその学生は語りました。そしてある日、活動の仲間と偶然に出くわし、3ヶ月間も遠ざかっていた自分は気まずいモノや恥ずかしさのようなモノを感じた他方、仲間は「また一緒にやろう。戻って来い」と何の拘泥も無く迎え入れてくれ、「負けを恐れず、勝ちに拘泥しない」という哲学を美しいと感じていた自身を取り戻せたような気がしているというのです。

スピーチも“コンテスト”、“大会”となれば優劣が付く訳ですが、「想いを伝えようとする」という意味では負けも勝ちも在りません。大学で日本語を学ぶという傍ら、彼らは“外国語学習”という限定的にも聞こえる枠組みを超えた何かを着実に経験して学んでいるような気がしました。そして、そういう色々な事を学んだ人達が、大会冒頭の言に在ったように「日ロ関係の未来を担う」ことが叶うようになるのかもしれません。

また5月には「サハリンのユジノサハリンスクだけでも、存外な数の日本語学習者が在る?」と驚きましたが、今回は「イルクーツクからサハリンまでというような地域だけでも、随分と方々に日本語学習者が在る」という、更にロシア全土やCIS諸国からも出場が在る大会も在るという「裾野の広さ」に驚かされました。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 15:09Comment(0)カルチャー

<三兄弟>:アレクサンドロフスク・サハリンスキーの象徴的な存在の岩(2017.09.23-24)

「市章」と呼ぶのが最も判り易い言い方になると思いますが、サハリンで“地区”と呼ばれる各自治体では、各々の紋章を定めています。

稚内市との友好都市交流を続けているネベリスク、コルサコフ、ユジノサハリンスクでも各々にそういうモノを定めています。稚内での催事でも、それらを示すような場面が在りますが、各々に工夫をした紋章で、なかなかに美しいモノです。そして、ネベリスクが“トド”を図案に入れている例が在りますが、「地区の特色」を想起させるユニークな図案も多く見受けられるものです。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーではこういう市章を使っています。
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一瞥して「山?」というように、または「チェスの駒?」というようにも思いましたが、何れでもありません。

↓こういうモノの図案なのです。海から突き出ている3つの岩です。
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このアレクサンドロフスク・サハリンスキーの海岸に突き出ている3つの岩は<三兄弟>(Три Брата)(トリ ブラター)と呼ばれて古くから親しまれているものです。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の一部を成す「ツァプコの家」ですが、元々は「港での無線連絡に関する仕事」のことを顧慮して現在も在る場所が選ばれていたようで、「ツァプコの家」を起点にすると港の側、その少し先の<三兄弟>が視える海岸へは行き易い感じです。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの港ですが、博物館で古い写真を視ると「桟橋が築かれていて、小さな船で沖の大き目な船との間を行き交う」ようになっていました。現在でも大型船が出入可能な状態ではない様子です。大型船が停泊している様子は視えませんでしたし、大型船のためと見受けられる施設も視えませんでした。

「ツァプコの家」の直ぐ先に、海へと注ぐ川に架かった橋が在り、そこを渡って進めばアレクサンドロフスク・サハリンスキーの港に至ります。「廃工場?」というような建物、「廃工場風だが、何かやっている?」という感じの場所、少し古めかしい感じがする場合も在る戸建ての民家が文字どおりに点在しているような中、車輛が通り抜けると多少の砂埃が舞い上がる道路を進めば水辺の風景になります。

やがて港が在ります。「アレクサンドロフスク・サハリンスキー・モルスコイ・ポルト」(アレクサンドロフスク・サハリンスキー海洋港)の略称と見受けられる“АСМП”(アーエスエムペー)という文字が在る大きな門扉が視えたのですが、その辺りに「グルーッ!」と唸る犬が3頭位居て、繋がれているのかと思えばそうではなく、いきなりこちらに吠えながら駆けて来るので、別段に悪いことはしていないにも拘らず、慌てて走って逃げました。

「物騒な感じの犬だった…」とブツブツ言いながら更に進むと海岸が視え、好天の土曜日だったことから、散策している家族連れや、ゆったりしている人達の様子が視える平和な光景が眼前に拡がりました。

↓人為的に造ったのではなく、自然の造形で、こういう具合に「寄り添う兄弟」のように3つの岩が並ぶのは不思議なことです。
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海岸辺りに岩が突出るように立っていて、その景観が親しまれている例は日本国内でも、他の国や地域でも在るように思いますが、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーの例のように「綺麗に3つ並ぶ」のはやや珍しいような気がします。

↓望遠ズームでも画を撮っておきました。海岸からは思った以上に距離が在るように視えました。
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「大きな看板をビルの屋上に設置」というようなことをすると、“大きさ”が判り悪くなる場合が在ると思います。この岩も、実際にはかなりな大きさなのだと思いますが、「海岸線から微妙な距離で、広々とした海に突出し、背後も広漠とした空」という条件のために、大きさが判り悪くなっています。

それにしても、視れば視る程に「海の上に“石庭”を造ったかのようだ」と思えて、少しゆっくりと視ていました。

訪ねた際には、満潮かそれに近いタイミングだったのかもしれません。思う以上に海水が岸に迫っていて海岸は狭く、打ち上げられた海藻に覆われているような箇所も多く、少し南寄りに相当する辺りまで「歩いて行ける」と聞いていましたが、途中からそこは海面下になってしまっていて、余り進むことが出来ませんでした。

この<三兄弟>に関しては、少し違う角度からも見ました。

↓別な方角から回り込むような型になりますが、“АСМП”(アーエスエムペー)というエリアの少し北側に在る砂浜に出てみると、前日とは違う角度で<三兄弟>が小さく覗きました。
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↑こうやって海岸部の断崖と並んで比較が出来るように視ると、<三兄弟>が存外に大きいことが判ります。

好天の休日という好い条件ではありましたが、この<三兄弟>が視える辺りに行くと「存外に地元の家族連れと見受けられる人達が多い」ような感じだったことに少し驚きました。市章に使う程度の「対外的に“発信”するような代表的景勝地」が、地元の人達にも愛されているという様子が判ります。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(2017.09.23)

「サハリンで最初の州都」という経過を持つアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、“博物館”と名が付くモノについては「1896年に当時の総督令によって開設された博物館を嚆矢とする」と考えられているようです。その古い博物館に関しては、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館に“移転”して伝統が引き継がれていると考えれれているようです。

現在、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで「博物館」と言えば<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(Историко‐литературный музей "А.П. Чехов и Сахалин")のことになります。

これは1890年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸した作家のチェーホフが「立寄っている」と伝わる古い建物を修繕した建物での展示、そこに並んでいる流刑地時代の施設を再現した展示施設、更に少し離れた古い住宅の建物を利用した郷土資料館を総合した、正しく「歴史文学博物館」です。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、川がタタール海峡に注ぐような場所の高低差の在る複雑な地形の場所に拓けた坂の多い街です。ソ連時代以来の集合住宅の建物や、地区行政府庁舎や、“ポストソ連”な1990年代に建てられたと見受けられる教会が在る辺りから坂を下りると「チェーホフ通」という住所に至ります。

その「チェーホフ通」には、何やら年季が入った建物が散見するのですが、ここに3ヶ所に分かれている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の2ヶ所が在ります。

↓チェーホフ通を進み、「通の先も高台のようになっていて、何やら年季の入った建物が在る」と思いながら進んで行くと、こういうモノに出くわします。
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↑板を組み合わせて塀が設えられていて、通用口のような扉が開いていて「何らかの展示施設」と見受けられます。

↓中にはこういうような道標が立っていました。
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↑方角が正しいのか否か、目安になるモノも無いので判りませんが、「サンクトペテルブルグ」、「ウラジオストク」、「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」というような地名が在ります。ロシア革命以前の古いアルファベットによる綴り方が用いられています。その地名の後ろにはヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在る古い単位が用いられています。アレクサンドロフスク・サハリンスキーにこういう施設が実際に建てられていた19世紀末辺りであれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったそうです。地名が出ている各地への距離は、ここに在る数字の感じで正しいと思われます。

実はこういう展示施設がここに在ることを事前には知りませんでした。道標が不思議だと思って眺めていれば、中から係員が出て来ました。有料の展示施設であるということで、中に入って券を求めました。入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルの入場料でした。

↓この施設は「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現したモノのようです。
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施設内には、流刑地時代の様子を示す展示が在りました。当時の港の様子や道路建設の様子を紹介する写真も在り、「正しくティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かって来たバスで通った場所!」と感心しながら見ていました。そして、アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエへ引揚げる際は、道路脇の地名表示を視て「あの博物館の資料写真に在った辺りがここだ…」と車窓をじっと視ていました。

↓そこから少し進んだ辺りの古そうな建物の壁に、プレートが掲出されています。
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↑プレートには「流刑地時代の1886年にリンズベルグによって建てられた建物で、1890年の6月から9月に統治に滞在したチェーホフが何度となく立ち寄っている」と在ります。

チェーホフが何事かを想いながら歩き回っていた場所に立つことが出来た訳です。

↓チェーホフが訪れた頃も、こういうような雰囲気だったのかと想像していました。
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この辺りに関しては、「チェーホフの時代」をテーマに“ミュージアムパーク”というような具合に整備をしようとしているように見受けられました。

↓直ぐ傍にサンクトペテルブルグの彫刻家が原型を創ったというチェーホフの立像が据えられていましたが、辺りは工事中でした。広場でも整備するようです。
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↑チェーホフは長身であったらしいですが、この像はかなり背が高い感じでした。

↓チェーホフも立ち寄っているという建物の中も資料館になっていて、色々と貴重なモノが溢れていました。
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入場料ですが、最初の「スタンカ」を再現した場所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。

辿って来た道を引き返し、往路で下った坂を上がり、教会の在る辺りに戻ります。そこから緩やかな下り坂を進み、バスターミナルが在る辺りを過ぎると古い家が在ります。歩いて、概ね15分弱というところだったでしょう。

↓1915年に建てられたという古い住宅です。ここは<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の3ヶ所の中の1ヶ所になっています。
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↑「チェーホフとその時代」に光を当てたチェーホフ通の施設に対して、もう少し「地域の歴史等」に光を当てる展示が在る場所です。

↓博物館に利用されている建物そのものが史跡です。アレクサンドル・ツァプコという人物が住んでいた経過が在ることを示すプレートが掲出されています。
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アレクサンドル・トロフィーモヴィチ・ツァプコはオデッサで学んだ電信技士で、サハリンのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで電信局を開こうとやって来て、博物館に利用されている建物で活動をしていました。1915年のことで、「サハリン初の電信局」ということになるそうです。

その後、革命の経過が在ってツァプコはサハリンでの革命勢力の代表者に選任され、サハリンを統括する地区の中心が対岸のニコラエフスク・ナ・アムーレということになった時期にもアレクサンドロフスク・サハリンスキーに残っていました。やがて「シベリア出兵」で日本軍がサハリン北部を占領した状況の中、1920年に「日本軍に連れて行かれる」という主旨の短いメッセージを残して消息が分からなくなったそうです。技術者として功績を挙げたことから敬意を払われ、人柄の好い街のリーダーとして愛された人物だったとのことで、消息を絶ってしまったことが惜しまれていたそうです。そんな経過から、建物の在る辺りの住所は後年「ツァプコ通」と名付けられました。

因みに、1915年に建てられたという「ツァプコの家」は、シベリア出兵に伴う占領時代には日本軍関係者が使用した経過も在るということです。

↓この「ツァプコの家」を利用した展示施設は、19世紀までに制作されたと見受けられるイコンのようなモノから、20世紀の生活道具等、そして戦時中のモノが在り、他にサハリン北部で見受けられる鳥獣の剥製が在るコーナーも在ります。
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この「ツァプコの家」を利用した展示施設に関しても、他の2ヶ所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。“共通入場券”とか、「3ヶ所全部の入場券」というようなモノは在りません。一体化したような体裁を取ろうとはしていますが、結局は「別々だった3ヶ所」ということかもしれません。それでも、3ヶ所で全く同じ様式の券が出て来ました。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は、3ヶ所各々は然程大きくないものの、3ヶ所を一気に巡るとそこそこのボリュームになります。土曜日に訪ねたのですが、グループでバスを仕立てて見学している何処かの生徒のグループも見受けられました。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの地元や近郊からなのか、サハリンの他地域からなのかは判りませんでしたが、<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は生徒達にとっても、なかなかに好い学習の場になっている様子でした。何処を訪ねても思うのですが、「学校の生徒のグループが見学している様子が見受けられる博物館や資料館」というような場所は“ハズレ”が少ないような気がします。

こういう博物館は、ゆっくりと視ていれば1日中でも時間を費やすことが出来るのかもしれませんが、筆者はアレクサンドロフスク・サハリンスキー到着の直ぐ後から午後の早めな時間までを費やすに留めました。午後は辺りの景勝地を愉しもうとしたのでした。幸いにも眩しい程の好天でもありました。

博物館自体も興味は尽きないものです。が、それ以上に辺りがどんどん拓かれていたようなチェーホフの時代に人々が行き交ったような場所、ツァプコの家のような20世紀の第一四半期というような激動の時代に生きた人々の息吹が感じられるような場所等に「自身で佇んでみた」という感慨が非常に深いもので、「訪ねて善かった」と引揚げてからも振り返っている状況です。

早朝に眺めてみる<展示・記念複合施設 “勝利”>(戦史博物館)の建物外観(2017.09.22)

「ガイドツアーのみで、観られるのは1階のみ」という限定的な型ではあるものの、長く“準備中”という話しで中を見学出来なかった<展示・記念複合施設 “勝利”>(戦史博物館)が見学出来るようになり、訪ねてみた経過が在りました。

とにかくも「酷く目立つ」建物なので、見学できない状況だったのがよく判らなかったのですが、限定的な型ではあるものの見学可能となって善かったと思うようになりました。そういうようになると、「酷く目立つ」建物の外観を愉しんでみようということになります。

この建物が在るパベーダ広場は、ユジノサハリンスクの街の東寄りに相当します。朝早い時間帯には、日出が視られる方角で、朝は光で空が刻々と劇的に表情を変える場合も見受けられる筈で、建物の見え方も面白い筈です。

そんなことを思い始めていたのでしたが、早朝6時頃に戸外の様子を伺ってみると天候が好さそうな感じだったので、パベーダ広場に足を運んでみました。

↓午前6時半になる前です。
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↑暗い夜空の青味が少し濃くなっている感じではありますが、華々しいライトアップが点いたままの状態で、「夜の残滓」というものを色濃く感じます。

↓午前6時半頃になるとライトアップは消灯となるのですが、何となくライトアップが「未だ続いている?」ように視えなくもありません。
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↑これは写真に撮ると黄色味を帯びた光になる街灯が未だ点いているため、建物や地面がその黄色味を帯びた光の影響を受けた見え方になります。

↓午前6時50分前後に街灯も消灯になると、辺りは「朝の刻々と変わる自然光」が創り出す色合いで視えるようになって行きます。
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↑午前7時頃になると、この辺りの背後の丘陵の向こうの空で朝陽が上がり始め、辺りは早朝に特有な紫色を帯びた光に包まれ、建物の白い壁等は特に紫色を帯びて視えます。

このパベーダ広場の辺りは、日本国内の都市では余り例が思い当たらない「広々とした空間の構成」で、同時に見慣れない感じの大きな建物が在って、散策してみるには興味深い場所のように思えます。ユジノサハリンスクに限ったことでもないと思いますが、何かで他所の土地に滞在する機会には、「早朝の時間を利用して辺りを歩き回ってみる」ということをしてみると、思いも掛けずに素晴らしい光景に出会うことが出来るものです。

「早朝の時間を利用して辺りを歩き回ってみる」といっても、明るくなる時間帯が早過ぎる、逆に遅過ぎるというのはやや困りますが、現在の時季であれば「6時台は一寸暗く、7時頃から明るくなる」という感じなので「朝食前に一寸」ということもし易いかもしれません。

それにしても「酷く目立つ」建物が、夜明けの前に刻々と色を変える様子は、なかなかに見応えが在ります。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:00Comment(0)訪ねる

落葉が少し目立ち始める…(2017.09.26)

少し前から「落葉…」と気になる場合も見受けられるようになっていました。

↓稚内市サハリン事務所の傍、コムニスチ―チェスキー通の広めな歩道の木が植えられている辺りです。
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↑存外の量の落葉が溜まっています。

次第にこういうような感じの場所が方々に見受けられるようになっています。何時の間にか、秋は速足にやって来た感です。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーへの道程(2017.09.22-25)

「週末を利用して、余り訪ねる機会が無い場所へ」というのは、他所の土地へ赴任すれば誰しもが考えることであると思います。筆者は「アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねてみたい」と長く考えていました。ユジノサハリンスクから550㎞程度―東京・大阪間よりやや近いですが、要する時間は遙かに長い感じです…―北西の小さな街で、日帰りはキツい場所ですが。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、帝政期、またソ連時代にサハリンの中心的な街であった経過が在ります。1890年にサハリンを訪れたことが知られる作家のチェーホフも、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸しています。そして1905年の日露戦争の終盤、加えて1920年から1925年のシベリア出兵の時期に日本軍が占領した経過も在る場所です。こういう歴史を伝える、なかなか好い資料館を擁している街です。更に、かのラペルーズが1787年に命名したというジョンキェル(Жонкьер)岬が近くに在って、古い灯台が崖の上に建ち、地域のシンボルのようになっている<三兄弟>(Три Брата)(トリ・ブラター)と呼ばれる岩が海面に突き出ている独特な景観も知られます。何か「サハリンという島」のイメージが詰ったような、そういう感じがしていました。

国や地域を問わず、「古くは地域の中心的な街で大きな存在感を示していたが、時代が移ろう中、行政の中心が別な場所になった、または主要な交通経路から外れて行ったというような事情で、古い資料等が残る小さな街としてひっそりと在るような場所」というモノが在るような気がします。或いはアレクサンドロフスク・サハリンスキーは、サハリンに在ってそういうような場所かもしれません。古くは州都でしたが、現在は主要な交通路も外れており、街の人口も1万人に届かない規模であるようです。

ユジノサハリンスクから、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねるには、車をチャーターするような方法以外の公共交通機関利用での方法としては「ユジノサハリンスクとティモフスコエとの間の夜行列車を利用して往復。ティモフスコエとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとの間をバスで往復」ということになります。

ユジノサハリンスクからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かう場合、ティモフスコエでのバスの接続を考えると、遅く発車する方の夜行列車を利用する他に選択肢が無い感じです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ向かう場合には、ティモフスコエからの2本の夜行列車の何れかを選んでバスでの接続が可能です。ティモフスコエから遅い方の列車でユジノサハリンスクへ向かうのであれば、ティモフスコエで数時間散策するようなことも出来なくはありません。(※ 2017年9月現在)

ユジノサハリンスクでは、駅の窓口でユジノサハリンスク・ティモフスコエの列車の往復の切符を、そしてバスの券売所でティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへの片道乗車券を求めることが出来ます。

バスも列車も「1日2往復」です。買う時に特段に面倒ということではないのですが、列車に関しては「注意事項」が在ります。

列車の券を買う場合、ティモフスコエのような距離(ユジノサハリンスクから491km程度とのことです。)では、券を購入する際に「パスポートの提示」が求められます。加えて、パスポートの番号と氏名が券面に記載されます。これは「外国人だから」というのではなく、「乗客全員」です。そして券を求める時、窓口の係員に「券面の氏名やパスポート番号を検めて下さい」と言われます。乗車予定の列車で間違いないのかということに加え、この氏名やパスポート番号は確り確認しなければなりません。誤記が在ると、乗車を断られる場合が在るようです。実際、筆者の場合は名前のアルファベットの一文字が違ったので、申し出て訂正して頂きました。

↓こういうような券を手元に揃えた訳です。
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↑列車の券は、「モスクワ時間」の発車時刻が上の方、「サハリン時間」のモノが下の方に在り、号車番号と席番が入り、上述の氏名やパスポート番号も入ります。バスも「指定席」ということになっていて、席番が入った券が付いています。

因みに料金ですが、列車は片道が3918ルーブル40コペイカで、往復で求めたので7837ルーブル―端数のコペイカが“80”になって、切り上げになりました。―でした。バスは片道が227ルーブルでした。最近は1ルーブルが「2円弱」という感じなので、交通費は1万6千円強という感じです。(※ 為替レートは毎日変わっていますから、ここに参考までに記した価格は、筆者が券を購入した2017年9月の状況です。)

ユジノサハリンスクの駅では、ティモフスコエ、更にノグリキへ向かう夜行列車については、発車する30分位前から乗客をホームに入れています。

その時間帯にホームに出てみると、列車は待機中です。各号車の担当乗務員や警察官や駅の保安係が何やら大勢居て、乗客も存外に多く、見送りの人も大勢居ます。チョロチョロとして列車の写真等を撮っている雰囲気でもありません。とりあえず乗車する車輛を探し、そこの入口で乗務員に券とパスポートを見せます。薄暗い中ではありますが、乗務員は手持ちの名簿と、券面記載の氏名にパスポートの氏名を確認し、問題が無ければ「○番の席へどうぞ」と入口から乗車を促してくれます。

夜行列車には幾つの種類の席が在るようですが、「クペー」と呼ばれる寝台車がポピュラーです。

↓車内はこういう感じです。上下2段の寝台が向き合って、4人まで入ることが出来る部屋のようになったモノが並んでいます。
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↑1輛にその「4人部屋」が9つ並んでいます。36人まで乗車出来ることになります。

↓割当たった場所は、こういう感じになっています。
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↑適当に寝具を出して、横になって休むことが出来る仕組みです。今般は往復共に下段で、隣の人は居ましたが、上段の人は居ませんでした。幅も長さも、1人でごろりと寝るには十分だと思います。

↓車内で快適に眠り、朝にはティモフスコエ到着です。乗継のバスを探しながら、何となく列車の姿を写真に収めました。
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↑ティモフスコエの駅は街の中心からやや離れた場所です。駅名はどういう訳か<ティモフスク>となっています。

乗継のバスは駅舎の脇で待機し、続々と乗客が乗り込んでいます。求めて在った券をバスの乗務員(運転士)に示すと、書いて在る番号の席への着席を促されます。

↓ティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへは、山の中に拓いた坂が多い道路を進み、1時間20分程度です。距離にして60㎞弱ということでした。運行系統番号は503番で、バスの正面に番号が掲出されています。
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↑23人や24人が乗るようなタイプのバスです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、路線バスはこの型の車輛を運用している様子でした。他の型のバスは視掛けませんでした。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーのバスターミナルに到着しましたが、到着直後に復路の「アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエ」のバスの券を求めました。
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↑ターミナルの窓口は、日曜日には休業しているようです。他の曜日については、朝のティモフスコエからのバスが着くような時間帯には営業しています。因みに夕方の営業終了ですが、土曜日は早めに閉めているようでした。

こういうような行程でアレクサンドロフスク・サハリンスキーに辿り着き、電話予約で1泊お願いした宿に旅装を解き、秋の好天という中でアレクサンドロフスク・サハリンスキーの様子を愉しみました。

<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>(2017.09.16)

稚内市サハリン事務所の近くのレーニン通を南下し、東の端に大聖堂等が在るパベーダ通を越えて、少し先に進むとパグラニチナヤ通が在ります。レーニン通と交差する辺りは、少しユニークな建物のカフェも在る緑地になっていて、寛ぐ人達、親子連れや遊んでいる子ども達が見受けられます。

そのパグラニチナヤ通を東側へ少し進むと、少し気になる建物が在ります。

↓こういうような屋根が視える建物です。
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↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が見当たらず、少し寄って「気になる」切っ掛けとなった特徴的な屋根の辺りを撮ってみました。

丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられています。十字架の形状はロシア正教の、上と下に横線が加わった独特な様式のモノです。

↓「恐らく?」と思って入口に寄ってみれば、間違いなくロシア正教の寺院でした。
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↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称です。上の方は、ロシア正教の施設であって、何処の管轄区であるかを示す表現です。ここは<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるようです。

↓寄ってみたのは土曜日の日中で、中に入ることも出来ました。
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↑大きな堂内でもありませんが、確りとイコンの壁が形成され、なかなかに立派な設えです。

↓外から見えるドームの辺りから、中に光が入り込むような具合になっていて、ロシア正教の寺院で多く見受けられる雰囲気が醸し出されています。
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この堂内の隅に、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>のあらましを綴った小さなリーフレットが在りました。それを視ていると関係者の方が通り掛かり、「頂いて構わないか?」と尋ねると「勿論!」ということなので、有難く頂きました。「なるほど…」とリーフレットを視ていると、関係者の方が近付いて来て「こちらも差し上げます」と、この寺院の名の由来となっている「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物を紹介したリーフレットも下さいました。

この寺院の場所は、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていた中、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだということです。これが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となって行きます。

地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられ、建築が許可されました。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至っています。活動を始めた頃の旧い建物は撤去したとのことです。

建物は2012年供用で新しいモノですが、1990年代初めに「ロシア正教の活動」が活性化したような頃からの経過が背景に在ります。筆者のような見知らぬ来訪者でも、ロシア語のリーフレットが読めるのであれば、そういう経過を知ることが出来るように、リーフレットが用意されています。そういう辺りに「生き生きと活動が行われている場」というような雰囲気を感じました。

ここの名の由来である「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)は、今年が生誕220年ということになります。活躍した時代は、日本史で言うと「江戸時代の末頃から明治時代の初めの方」という時代です。

イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となり、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任しています。イルクーツクを発って、任地に到着出来たのは翌年になってからのことだったそうです。

アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成し遂げました。そして彼が活動と並行して綴った様々な記録は、現在では現地の当時の状況を知る貴重な史料にもなっているようです。

1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けています。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになりました。

1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っています。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任されました。

ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物ですが、「アラスカのインノケンティ」としても知られています。

19世紀後半から末の頃、様々な少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたといいますが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る訳です。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思えます。

彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうです。

↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのですが、本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所です。
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大勢で見学に出掛けるような雰囲気でもないようには思えますが、「地域に根差した普通な教会」という雰囲気が判るのは、こういうような場所かもしれません。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:00Comment(0)訪ねる

列車の乗降場 <シティーモール>(2017.09.16)

コルサコフ港から、またはユジノサハリンスク空港からユジノサハリンスクの都心部側へ北上する際、ユジノサハリンスク市の区域に入ったままミール通を進むか、途中からレーニン通の側に進むことになります。

ミール通側、レーニン通側の何れの側から北上しても、大型商業施設<シティーモール>の大きな建物、或いは本館以外の一連の施設は眼に留まり、誰しも「あれは何?」と気になるものです。

この<シティーモール>へユジノサハリンスク市内から向かうとすれば、車以外の公共交通として路線バスが一般的です。日本からの旅行者も利用する場合が多い<パシフィックプラザ>というホテルはミール通に沿って建っています。そのホテルの傍にもバス停が在って、運行系統#63というバスが行き交っており、ユジノサハリンスク空港へ向かうその路線の「空港に着く手前」という辺りで下車すると目の前です。と言うよりも、施設の開設に合わせて停留所が目の前に設けられたのでしょう。このバスに関しては、初めてサハリンを視察に訪れた方達に御紹介したところ、予定以上に時間が出来た中、その方達はバスで<シティーモール>を訪ねてみたとのことでした。

余り知られていないのですが、<シティーモール>に関しては、車でもなければ路線バスでもない行き方も出来ます。「出来ます」と言い切るより、「出来るには出来る」と言葉を濁してしまう感じにはなってしまうのですが。

↓こういう場所が在ります。
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↑線路の脇に人が立つ場所が設けられ、看板が出ています。

実は<シティーモール>は、ユジノサハリンスクとコルサコフとを結ぶ鉄道の沿線に建っています。鉄道はユジノサハリンスクの都心辺りではレーニン通の西側に相当するジェレスナダロージナヤ通に並行していますが、街の南側ではレーニン通に並行して<シティーモール>の前を過ぎ、更にユジノサハリンスク空港へ通じる辺りを過ぎてコルサコフ地区へ延びています。

上の画の乗降場はレーニン通側に設けられています。道路沿いのバス停には、待合客向けに屋根が設けられている他方、列車の乗降場にはそうしたモノは在りません。

↓本当に、道路を挟んで<シティーモール>の建物や駐車場が視えます。
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↑レーニン通の南端のような辺りは交通量が多いので、押しボタン式信号機が据えられた横断歩道も手前の道路に設けられています。

「列車で<シティーモール>へ!」ということも可能な訳ですが、「出来るには出来る」と言葉を濁してしまう感じにはなってしまうのは、「旅客列車が極端に少ない」ので利用機会が設け悪いという事情の故です。

毎日運行の旅客列車は1往復のようです。そして、平日は朝にコルサコフ側からユジノサハリンスクへ向かう列車が1便在るようです。土曜日と日曜日には別に1往復の列車が運行されています。こんな「1.5往復+土日に1往復」で、眼前の<シティーモール>を利用し易いような時間帯の列車も、例えば「土曜日と日曜日のコルサコフ発の列車」というのが在る程度です。そして、往路で列車を利用したにしても、復路の列車が見当たらない感じです。

こういう状況ですから、「列車で<シティーモール>に行った」という話しは耳にしたことが在りません。それでも、土曜日と日曜日にコルサコフからユジノサハリンスクへ向かう列車が停車しているような時、「<シティーモール>へ行く人か?」という乗客が下車するのを視掛ける事が無い訳では在りません。

実は、偶々<シティーモール>の建物前に居合わせ、偶々停車した列車から数人が下車していた様子がかなり離れた辺りに視え、「そう言えば乗降場が在った」と思い出し、近寄って写真を撮ってみたのが記事に使った写真です。<シティーモール>に出入りする人は、1日の延べ数では存外な数になる筈ですが、「列車で来た人」は数える程、または居ない感じです。

ユジノサハリンスク・コルサコフ間に関しては、この<シティーモール>のような「往年の駅が在ったでもないと見受けられる場所の乗降場」が幾つも見受けられ、利便性の向上が図られているようにも見える他方で「何故?」と不思議な程度に列車の運行が少ない不思議な様子が見受けられます。北海道内等でも「これでは利用し悪い」という程度に列車の運行本数が少ない例は見受けられますが、このユジノサハリンスクとコルサコフとの間は不思議です。他方で、この区間はバスの運行が非常に盛んです。