ブロニスワフ・ピウスツキの顕彰碑(2017.06.04)

サハリン州郷土博物館の正面の左側に然程大きくない像が設置されています。

↓こういうような像です。何か「明確な胸像」とか「銅像」ということでもない、独特な味わいのモノです。
ピウスツキ.jpg
↑一瞥すると、「髭を生やした人物の顔らしきモノが付いた石柱」のようにも見えるかもしれません。

これはサハリン州郷土博物館の入口が設けられている正面側に在るので、博物館を見学したことの在る方の多くが視ている筈のモノですが、他方で「髭を生やした人物の顔らしきモノが付いた石柱」のようにも見える地味なモノなので、余り記憶に止めていない場合が多いかもしれません。

このやや地味な像はブロニスワフ・ピウスツキ(1866年 - 1918年)の顕彰碑です。このブロニスワフ・ピウスツキは、サハリンで見受けられる北方少数民族の研究に功績が在り、正しくこのサハリン州郷土博物館の正面に顕彰碑が据えられなければならない人物です。

ブロニスワフ・ピウスツキは当時はロシア帝国の版図であり、ポーランドの文化圏であった、現在のリトアニアで生まれています。現在はリトアニアの首都となっているヴィリュニュスで高等学校を中退していますが、1886年にサンクトペテルブルグ大学の法学部に入学しています。

このサンクトペテルブルグ大学の学生であった頃、かのレーニンの兄であったアレクサンドル・ウリヤーノフが首謀者グループに在ったという「アレクサンドル3世暗殺計画」に「連座した」とされ、サハリンへ流刑となるのでした。15年の刑期が宣告されました。

サハリンに入ったブロニスワフ・ピウスツキは、最初は大工をしていたのですが、「法学部の学生=知識人」でもあったことから地元の子ども達にロシア語や算数を教える“識字学校”というものを起こし、北方少数民族の人々との接点が出来ます。やがて、警察の事務局職員という仕事も得るようになりました。

こういうサハリンでの流刑生活の中、ブロニスワフ・ピウスツキは同じく流刑中であった民族学者のレフ・ヤコヴレヴィッチ・シュテンベルクと知り合い、ニブフ文化の研究やアイヌ文化の研究に打ち込むようになって行きました。

1896年にアレクサンドル3世が崩御したことによって恩赦が発令され、ブロニスワフ・ピウスツキの刑期は10年に減刑され、1897年には刑期が満了しています。

刑期満了後、ブロニスワフ・ピウスツキは各地を動き回り、サハリンの北方少数民族に関する資料収集等の研究や、その成果の紹介に力を尽くします。

他方、ブロニスワフ・ピウスツキは1905年の日露戦争を契機に日本へ渡り、暫らく滞在した後に米国を経てポーランドに戻り、欧州各地で動き回りながら、ポーランド独立運動とサハリンの北方少数民族の研究を並行して進めています。1918年、動機や事情は不明とされていますが、パリで自殺してしまいました。

私生活の面でブロニスワフ・ピウスツキは、アイヌ女性と結婚して一男一女を設けています。この2人の子ども達は第2次大戦後に日本へ移住していて、子孫は日本国内に在るとのことです。

ブロニスワフ・ピウスツキが収集したとされる資料の中、殊更に貴重とされるのは、北方少数民族の言葉を伝える、当時の録音技術である“蝋管”での記録です。これらは「現存最古のサハリンアイヌの言葉の音声資料」ということになるそうです。

ロシア帝国に批判的であった立場を取ったブロニスワフ・ピウスツキですが、収集した資料の一部はロシアにも伝わっているようです。日本でその「ロシアに伝わるアイヌ資料」を借り受けて、日本国内の博物館で企画展として公開していたというようなことも在りました。

こうして視ると、なかなかに興味深い人生を送った人物でもありますが、北方少数民族関係のコレクションを有するサハリン州郷土博物館に在っては、顕彰碑を設置しなければならない人物であることはご理解頂けたと思います。

ヨーロッパの歴史に明るい方は“ピウスツキ”という姓を耳にして「もしかすると…」と思われたかもしれません。ポーランドの歴史では、第1次大戦後の1918年にポーランド共和国が発足していますが、その初代の元首にユゼフ・ピウスツキが就任していることが知られています。更にユゼフ・ピウスツキはポーランドの歴史に大きな足跡の残します。そのユゼフ・ピウスツキは、ここで話題にしたブロニスワフ・ピウスツキの実弟です。

サハリン州郷土博物館の入口脇に在る、やや地味なモノ一つから、随分と話しが色々と拡がるものです。

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