“番犬”ということでもないのでしょうが…:ネベリスク(2018.07.27)

<野焼き>の関係、<サハリン友好都市青少年交流>の関係で、7月末から8月冒頭に相次いでネベリスクを訪ね、市内の宿に泊まる機会が在りました。

ネベリスクで泊まるとなれば、街の南端側に在る<オケアン>という宿が、居心地の好い宿泊施設ということになるでしょう。1泊3千ルーブルからです。

↓ホテルの入口辺りです。
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↑この端正な犬に頻繁に出くわしました。

宿を営んでいる方の飼い犬のようです。こうして建物の扉辺りで、出入りする人を見送ったり迎えるように座っていることが多い他方、玄関手前のベンチに腰を下ろしていると近寄って来て足下の匂いを嗅いでくることも在りました。

ここでは、この犬が宿の敷地内を自由に動き回ることが出来るような状態で飼われていました。他所では、日本国内に見受けられるように外にチェーンで繋がれている状態の犬も多く視掛けます。また、集合住宅の室内でなかなかに大きな犬を飼っている例も在るようです。集合住宅の出入口から、飼い主と思われる方と同じようにさえ見える大きな犬が出入しているのを視て驚くこともあります。

それにしても、ネベリスクの<オケアン>という宿で視掛けた犬ですが、何となく記憶に残り、時々思い出しそうな感です。

<ノーヴァヤ・ゼムリャ>から日本海を望む(2018.07.27)

「2007年の直下型地震で隆起した海岸部の“新しい地面”」ということになるネベリスクの<ノーヴァヤ・ゼムリャ>に関しては、それなりに広い場所なので、「最初から市街の外れに在った空き地」というように思えて、“海”というようには意識し悪い場所です。

↓しかしこういう様子を視れば、“海”を少し強く意識します。
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↑<ノーヴァヤ・ゼムリャ>が切れる辺りの、海水が鏡面のようになっている辺りに西日が輝いている空が写り込んでいますが、少し先に大きな船が浮かんでいます。「間違いなく海」だと判ります。

毎年、この<ノーヴァヤ・ゼムリャ>が『野焼き』の会場になっていますが、この場所でピクニックをしている方も時々在るようです。

<ノーヴァヤ・ゼムリャ>からネベリスク港を望む(2018.07.27)

「2007年の直下型地震で隆起した海岸部の“新しい地面”」ということになる<ノーヴァヤ・ゼムリャ>は、ネベリスクの街の南寄りな辺りに在ります。

↓北側には街の一部と港が視えます。
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↑港では石炭の積出しが盛んに行われている様子が視えます。

海底が隆起して出来た地面の切れる辺りは、「極端に遠浅な地形」のような、「干潟」のような、或いは「湖沼」のような不思議な感じで、波風の影響が少ない時には鏡面のようになっています。

「御近付になりましょう。私がトドです…」:ネベリスクの“観察所”(2018.05.14)

↓ネベリスクの海岸に看板が掲出されています。
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↑「御近付になりましょう。私がトドです…」というような標題です。

ネベリスクの地区行政府庁舎が在る辺りから少しだけ南―車であれば3分掛からないような場所。歩いても10分以内と見受けられる。―の辺りの海岸部に、昔の海難事故を伝える遭難慰霊碑の据えられた緑地が在ります。その辺りにこのトドの看板が掲出されています。ここから視える古い離岸堤のようになっている場所にトドの群れが居ます。

街の海岸から視えるような場所に、トドの群れが居るというような状態ですが、広いロシアでも然程例が無いということで、ネベリスクではこれを「街の象徴」のように考えていて大切にしています。

↓この程、ここを“観察所”というようなことにして、望遠鏡を設置しました。
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↑静かな海岸部で、時々トドの“雄叫び”が海の側から聞こえる場所です。そんな声を耳にしながら望遠鏡を覗くと、離岸堤の上でトドが蠢いていて、時々「ドッボーン!」と海に飛び込んで泳ぐ様も視えます。

↓そういう、なかなかに微笑ましい感の他方、こういうような形で「問題」を啓発するオブジェも据えられています。
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↑「皆さんのゴミに私達が蝕まれる」と海獣達が人々に訴えるという体裁で、ゴミの投棄を諌めている訳です。

ネベリスクで人々が親しむトドですが、終にこうやって「手軽に観察」という場所が整備されました。

例年、トドは4月後半から5月位に多く視られるようです。休日には眺めに足を運ぶ人達で少し賑わっているとのことです。

G.I.ネヴェリスコイ記念文化センター(2017.07.13)

ネベリスクの都心部を訪ねると、やや小さめで典雅なレーニン像が建っていて、一面が石畳風に整えられ、鮮やかな花壇も多く設えられた広場が在ります。広場は、4月から整備工事が始まって、6月末までに竣工したものです。

辺りには地区行政府の庁舎、歴史郷土博物館、図書館等が在ります。

↓その広場辺りで一際目立つ建物がこれです。
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↑G.I.ネヴェリスコイ記念文化センターです。竣工した広場に据えられた花壇の鮮やかさと相俟って、建物の見栄えが増したように思います。

画は、<第10回 友好都市経済交流促進会議>に臨む稚内市代表団が、ネベリスク地区行政府の皆さんの御案内で、会議会場となった館内へ向かう時の様子です。ネベリスク市の皆さんは、何かの催事で稚内関係者が訪ねると、何時も非常に温かく迎えて下さいます。

G.I.ネヴェリスコイ記念文化センターの2階には<カンファレンスホール>が在り、40人や50人の会議や、もう少し規模が大きなセミナー等を催すことが出来ます。

このG.I.ネヴェリスコイ記念文化センターがオープンしたばかりだった2011年にも、<カンファレンスホール>で<第4回 友好都市経済交流促進会議>が催されたことが在りましたが、今回が2回目です。

そして1階には<コンサートホール>が在り、様々なステージ発表を催すことが出来ます。色々なアーティストの地方公演の会場にもなっているホールです。

稚内代表団が訪れたこの日、<ネベリスク・稚内友好都市45年記念コンサート 『友好と協力の45年』>が催されました。

G.I.ネヴェリスコイ記念文化センターの建物の南側は、「ネベリスク地区児童生徒芸術学校」が使用するスペースになっています。児童生徒の課外活動として取り組まれる、音楽や舞踊や、絵画などの制作が行われているのが“芸術学校”です。この“芸術学校”で学ぶ児童生徒を稚内に招聘し、公演を催した経過も在るのですが、何時もレベルの高さに瞠目します。今般、<ネベリスク・稚内友好都市45年記念コンサート 『友好と協力の45年』>でも、芸術学校の生徒の皆さんが歌や踊りを披露してくれました。

この他、G.I.ネヴェリスコイ記念文化センターの館内には、写真や絵等を展示するようなことに供される場所も在ります。

↓ロシア語によるG.I.ネヴェリスコイ記念文化センターのウェブサイト
>>МБУК «Районный дом культуры им. Г.И. Невельского»

このG.I.ネヴェリスコイ記念文化センターは、催事会場であると同時に、“芸術学校”が建物の一部を日常的に利用していて、正しく「地域の文化活動の“センター”」という趣です。

整備工事が竣工していた広場(2017.07.13)

サハリン滞在中の稚内代表団はネベリスクを訪ねました。

↓地区行政府庁舎、文化センターが在る辺りの広場です。
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↑美しい花壇に彩られた広場となりました。

↓4月、ここは整備工事に着手したところでしたが、6月末近くに完成したようです。
>>整備工事に着工した広場(2017.04.20)

今日はこの広場に面した<G.I.ネヴェリスコイ記念文化センター>を訪れた代表団は、『第10回 友好都市経済交流促進会議』に参加し、会議後は『ネベリスク・稚内友好都市45年記念催事 <友好と協力の45年>』に臨みました。

そして無事にユジノサハリンスクへ戻りました。稚内市代表団は明朝に帰国の途に就きます。

ネベリスクのN.V.ルダノフスキー記念碑(2017.05.06)

ネベリスクでは「1854年」を「建都」と位置付けています。

実際、現在在る都市に関して、人がその辺りに住むようになったのは何時頃なのか、交易等の経済活動が盛んに行われたのは何時頃なのか、農業や漁業等がその地域で営まれ始めたのは何時頃なのか、場所を特定する最も古い記録がどこに在って何時頃の時代かというような「人々の営みの始まりの根源」のようなことを精確に特定することは、国や地域を問わずに困難と見受けられます。多くの都市で、「記録が伝えられている様々な故事」の中から「最も古そうな出来事」、同時に「判り易い事例」を選び、「○○の故事を以て“建都”とする」というように決めているように見受けられます。

↓ネベリスクで「1854年」を「建都」と位置付けることにした故事を伝えているのが、この記念碑です。
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↑ニコライ・ワシリエヴィチ・ルダノフスキーという人物の事績を伝えているものです。

ロシアでは、1853年にネヴェリスコイの率いる一隊がサハリンに入り、現在のコルサコフの辺りにムラヴィヨフスキー砦という拠点を設け、そこを足掛かりに色々な活動を展開したという故事を以て「サハリンが拓かれた」というように考えられています。

ルダノフスキーはそのネヴェリスコイの率いる一隊に参加していた人物で、ネヴェリスコイの指示を受けて南サハリン各地を踏査して測量等を行い、詳しい地図の作成を行ったそうです。

ルダノフスキーはその南サハリン踏査の中、1854年に現在のネベリスクの辺りに到達しています。

「現場の責任者」であったネヴェリスコイがよく知られているのに対し、ルダノフスキーは少し知名度が低めかもしれません。海軍での彼らの階級ですが、ネヴェリスコイの最終階級は現在で言う大将や中将に相当するもので、ルダノフスキーは少将や准将に相当するものであったようです。そういうことはあるにせよ、「かなり困難であったのでは?」と想像出来る、南サハリン踏査に挑んだルダノフスキーに関しては「もう少し知られても?」というような気がします。

ネベリスクでは、或る種のユーモアとして「街の命名由来になったネヴェリスコイはネベリスクには多分来ていない。ルダノフスキーは間違いなくやって来ている…」と囁かれるそうです。では街の名が“ルダノフスク”でも善かったような気がするのは「後知恵」というものでしょう。樺太のソ連化で街の名が与えられる場面で、「ロシア史に在って、サハリンを拓いた功労者は何と言ってもネヴェリスコイ」という話しになってネベリスクという街の名が登場したものと見受けられます。

石炭の積出し(2017.05.06)

ネベリスクでトドが見える辺りを歩き回ると、当然ながら直ぐ近くということで、ネベリスク港の様子も見えます。

↓こういうような様子が視えます。
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↑埠頭の辺りに「黒い山」を形作っているのは石炭で、船に積み込む作業を行っているように見えました。

サハリン州政府が公表している2016年の資料では、サハリンの石炭産出は年間に489万トンに上り、その中の470万トン近くは輸出に振り向けられ、日本でも36万2千トン程輸入しているそうです。

このサハリンでの石炭産出の中、ネベリスク地区での産出は91万2千トンとのことです。ネベリスクの少し南側、ゴルノザヴォツクがネベリスク地区内の主要な産炭地です。ゴルノザヴォツクは、樺太時代には「内幌」と呼ばれていました。

ゴルノザヴォツクからネベリスクの港に運ばれた石炭が積み上げられ、これが何処かへ送り出すために着岸した船に積まれている様子が見えたという訳です。

ネベリスクは水産関係が地域をリードする産業だった経過が永いのですが、商取引額ベースで考えた場合、近年は石炭関係の存在感が増しているそうです。

「2つ」在るG.I.ネヴェリスコイ像(2017.05.06)

ネベリスクという街の名前、または地区の名前はG.I.ネヴェリスコイという人物に因むものです。

↓街の文化センターの傍で見付けました。
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↑可愛らしい人形のようなモノが、少し背の高い台座に乗っています。

この可愛らしい人形のような人物が、かのG.I.ネヴェリスコイだというのです。確かこれは、少し古くから在ったモノの筈です。

↓現在、ネベリスクで「ネヴェリスコイの像」と言えば、こちらを指し示すことが多い感じです。
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↑可愛らしい人形のような像が在る文化センターの辺りから、歩けば片道15分程度で着く広場に像が据えられています。

↓一寸見て、人の身長の倍か、それ以上は在るような感じです。
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御本人の名に因む街で佇むネヴェリスコイの像の目線の先には何が在るのでしょうか?

結局、ネヴェリスコイの像はネベリスクにも、コルサコフにも、ユジノサハリンスクにも在ります。

「引っ越し」(2017.05.06)

↓ネベリスク市街の集合住宅の前です。
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↑住宅の前にコンテナを載せたトレーラーが停車中で、出入口の前に家具等が積まれていました。

歩き回って喉が渇き、辺りの店で飲物の求め、求めたモノを飲みながら足を止めていて目に留めた光景です。一家の人、またはその同僚や友人という感じの人達が家具を外に出して「やれやれ…」とソファか何かに腰を下ろして一息入れている様子が見受けられました。どなたかがネベリスクから他所へ転出するのでしょう。

手伝う人が集まって、コンテナに家具を入れる様子ですが、「引っ越し」というよなものは、国や地域が変わっても、やることは然程変わらないのかもしれません。

因みにこれは未だ午前中でしたが、この日は昼から雨が降りました。朝から精力的に動き、この方はモノを濡らさずにコンテナに入れることが出来たことでしょう。