<横尾歌舞伎>のサハリン公演:『ロシアにおける日本年』の催事(2018.11.11)

↓ユジノサハリンスクの街の南東側、商業施設であり、オフィスビルでもある<スタリッツァ>に日本語の文字も入った看板が掲出されました。
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↑看板が掲出されている側が地下1階、地上3階に様々なテナントが入っている商業施設で、奥の硝子張りの建物はオフィスビルで、一部に飲食店も入っています。硝子張りの横に、主なテナントの看板も掲出されています。このビルの3階に<カンファレンスホール>という場所が在り、数百人規模の会合やコンサート等に利用されています。

↓この<スタリッツァ>の<カンファレンスホール>で、『ロシアにおける日本年』の催しである<横尾歌舞伎>のサハリン公演が行われました。
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<横尾歌舞伎>というのは、静岡県浜松市の引佐横尾(いなさよこお)地区に受け継がれている伝統芸能です。

歌舞伎は江戸時代を通じて幅広く親しまれるようになって行った演劇です。江戸、大坂、京というような大都市に常設の芝居小屋が設けられて賑わい、発展を続けた他、地方巡業を行う一座も多く見受けられ、全国各地に広まりました。そして各地で「自分達でやってみよう」という動きも起こり、土地の祭りで神社に奉納する芸能のようになる等して永く受け継がれました。横尾の歌舞伎も、そうやって普及して受け継がれるようになったモノの一つで、既に二百数十年の伝統が在るといいます。

引佐横尾地区は概ね200世帯程度の地区ということですが、<横尾歌舞伎>の公演には「殆ど全ての世帯の人々」というような、小学生からお年寄りまでの百数十名が関わっており、演者、音楽、大道具や小道具、衣装、着付けやメイクアップ、その他何でも必要なことを行っているといいます。

その引佐横尾地区の<横尾歌舞伎>に携わる皆さんがサハリンへやって来て公演を行うことになりました。在ユジノサハリンスク日本国総領事館の尽力で様々な準備が進められ、公演本番を迎えています。

↓会場の<カンファレンスホール>に着いてみると、未だ客席が埋まる前でした。少し面白い様子なので、1枚写真を撮っておきました。公演開始直前には、数百席が殆ど埋まりました。
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↑「あっ!歌舞伎…」という独特な色彩の幕が舞台に据えられていました。

芝居そのものの開演に先駆けて、こういうモノを全く初めて視るサハリンの皆さんに向けて、歌舞伎を観る場合に見受けられる“投げ花”や“大向こう”というような、小銭を紙で包んだモノを投げることや掛け声をかけるというような慣習も含めた「歌舞伎ワンポイント講座」のような内容が入りました。

そしていよいよ公演です。

演目は『菅原伝授手習鑑』の第三段からというモノでした。

『菅原伝授手習鑑』は、平安時代の菅原道真の失脚事件を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描くという物語です。

上演された第三段の主要な役は、松王丸、梅王丸、桜丸の三兄弟です。三兄弟は各々に貴人に仕えていましたが、梅王丸や桜丸の主人達は失脚の憂き目を見てしまい、二人は浪々の身です。神社の近くで二人が出くわした時、大袈裟な行列が現れ、聞けば二人の主人達を失脚に追い込んだ張本人の時平(しへい)の行列だといいます。二人は行列の襲撃を企てます。が、そこに立ちはだかるのが二人の兄で、時平に仕える松王丸だったのです。

上演中、脇のスクリーンに台詞の概要が「ロシア語字幕」で示されて内容が伝えられていました。が、近くの席の人達の様子を何気なく視ると、独特な所作を見せる、サハリンの皆さんには「不思議?」に視えるかもしれない衣装の演者達をじっと見入っているような人も多かったように見受けられました。そして、三味線や拍子木の音と共に、独特な抑揚で為されるナレーションも、不思議な音楽のようで聴き入ってしまいます。

↓松王丸、梅王丸、桜丸、時平と4人の主要キャストが配布されたリーフレットにも紹介されていました。
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芝居の後は、司会者が関係者に「これはどういうことなの?」と質問をして、それに答えるというトークセッションでした。

“花道”を意識して、一般的に演劇では演者が立たない位置で演じていたこと。舞台上に居るのに「居ないことになっている」という“黒子”のこと。「黒」、「柿色」、「萌葱」の3色を使う定式幕(じょうしきまく)のこと。赤は正義、青は悪、茶色は幽霊や妖怪ということになっているメイクのこと。そういうような、「日本の人でも知らない場合が在る?」ようなことがトークを通じて紹介されました。

また<横尾歌舞伎>の舞台に立った演者の皆さんは、普段は普通の仕事をしている市井の普通な人々なのですが、松王丸、梅王丸、桜丸の三兄弟を演じた皆さんも、各々にコンピュータ関係、地元の浜松市役所、自動車会社と普通に仕事をされていることが紹介されました。

伝統芸が市井の普通の人々によって永く受け継がれているという事例が在って、それがサハリンの皆さんに紹介されました。サハリンに居て様々な活動に携わる日本の関係者も、筆者自身も含めて来場していましたが、こういうものは日本国内に在っても頻繁に観られるでもない訳で、貴重な機会となりました。

ロシアも演劇文化が盛んと言える国で、ユジノサハリンスクでも舞台を観るのが好きな方は多いようです。そういう皆さんに、地域の人達が支える伝統的な舞台というモノは、強い余韻を残してくれたようです。
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映画<Несокрушимый>(ニェサクルシームィー)=破れざる者(2018.10.25)

稚内市サハリン事務所からも極近い、コムニスチ―チェスキー通に面した辺りに映画館の<オクチャブリ>が在ります。

この<オクチャブリ>のコムニスチ―チェスキー通側は、恐らく“映画館”と称している施設ではユジノサハリンスクで最大と見受けられる、700名位は入れそうなホールが在ります。そして裏のカール・マルクス通側に廻ると、100名程度が入る小ホールも在ります。

この<オクチャブリ>裏のカール・マルクス通をよく通り掛かります。通り掛かると、<オクチャブリ>の建物の裏側の壁に眼が向きます。映画の広告看板が在るのです。

↓このところ気になっていた看板がこれです。
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↑第2次大戦期のソ連軍の軍服を身に着けた、映画の劇中人物と見受けられる人達が出ている看板です。

第2次大戦期のソ連軍の軍服ということに加えて、画の左側の人物達は、当時のソ連軍戦車兵が使っていた少し独特なキャップを被っています。

ユジノサハリンスクでの映画上映ですが、上映の期間が何となく短めであるような気がします。1ヶ月まで続かず、2週間程度で終わってしまうような感さえします。そして、最初は日に何回か上映が、何時の間にか日に1回という感じになって、そして終わっています。当然、作品毎に状況は違うようですが、そういう状態なので「気になった作品を見逃す」という確率も少し高いように思います。

看板を視て作品が気になり、多少の情報収集を試みました。

↓公開されている予告篇です。


「凄い…画だ…」と、見付けた予告篇を何度も観てしまいました。

本作はKV-1(クリメント・ヴォロシーロフ元帥のイニシャルを採って、“KV”と呼ばれました。)という戦車を駆って、1942年の戦いで16輛のドイツ軍戦車を屠る勇戦をした戦車長が居たという史実を脚色した物語です。

予告篇動画の最初の方に在る、戦車が撃破されてしまう場面は、映画の冒頭の方に出て来ます。

セミョーン・コノワロフ大尉は、KV-1型戦車に乗り込んで指揮を執る戦車長です。この戦車には車長のコノワロフ大尉以下、ドライバー、砲手、様々な補助的な役目を務める兵士達と計5名が乗り込んでいます。

コノワロフ大尉の巧みな指揮で敵を撃破した少し後、辺りの様子を伺っていた時、思わぬ至近距離の物陰にドイツ軍の4号戦車が潜んでいました。コノワロフ大尉は乗員達に脱出を促しますが、その時には敵戦車砲の直撃を受けてしまいます。

その出来事から少し経った頃、未だ激しい戦いが続いている同地区のとある野戦陣地です。

戦車隊の前線駐屯地という場所にオートバイで乗り付ける者が在りました。野戦陣地での戦車の機関整備を指導するべく派遣されたエンジニアです。女性でした。このエンジニアは精力的に仕事をこなす他方、部隊の士官の名簿を視て、コノワロフ大尉の名を見付け「これはセミョーン・コノワロフか?」と確かめます。

前の戦いで部下達を失う羽目になり、自身も負傷していたコノワロフ大尉はこの野戦陣地に現れ、部隊の指揮官に着任を報告しました。

コノワロフ大尉はKV-1型戦車の<8号車>(ヴァシミョールカ)の車長に任じられます。彼が率いることになる乗員達は、戦場に遺棄された戦車から使える部品を集めて、自分達の戦車の整備をしようと一生懸命な年配のドライバーと、何時も彼に従っている若い兵士、食いしん坊のとぼけた感じの男ながら何でも器用にこなす男、幾つかの部隊を渡り歩いて世慣れた感じの砲手を務める軍曹の4人でした。

コノワロフ大尉は、この4人の新しい部下達と<8号車>(ヴァシミョールカ)を巧く運用するために“チームづくり”に執心しますが、<8号車>(ヴァシミョールカ)は機関に不具合が発生していて、運用に問題が在る状態でした。ここに女性エンジニアが現れます。実はコノワロフ大尉とエンジニアは古くからの馴染みだったのです。

そういう中、女性エンジニアに好意を抱いた部隊の副隊長である少佐との悶着等も起こる訳です。

少佐は、女性エンジニアが「未だ安定した状態ではない」という意見具申をしたことを敢えて無視して、<8号車>(ヴァシミョールカ)を威力偵察任務に送り出してしまいます。が、戦車は途中で動けなくなってしまいながらも、コノワロフ大尉の巧みな指揮で敵を屠り、味方の他の戦車の支援を受けて<8号車>(ヴァシミョールカ)は帰還を果たします。

やがて、更に大規模な両軍の衝突が発生しようという中、乗るべき戦車を失った形になってしまったコノワロフ大尉以下<8号車>(ヴァシミョールカ)の面々は、“戦車随伴歩兵”(戦車の上に乗って前線に移動し、敵陣地の掃討等の任務に就く歩兵)として出動することになりました。

ここから先に関しては、敢えて綴りません。コノワロフ大尉以下<8号車>(ヴァシミョールカ)の面々の必死な戦いが、映画のクライマックスです。

本作には世界的な配給会社が関わっていますが、ロシアの俳優達が、ロシアの先人達をモデルにした劇中人物達をロシア語で演じている、ロシアの監督による作品です。或いは日本語も含めて、何れ吹替えで各国に紹介されることが在るかもしれません。

そんなことも思いながら、「日本語吹替えなら、何と言うのか?」と気になった台詞が在りました。

コノワロフ大尉達が出発する際、女性エンジニアが出て行くコノワロフ大尉に言う言葉です。「生き残って…」か「死なないで…」が普通なのかもしれないのですが、何か「死なないように…して欲しいの…」という位が合いそうな気がする台詞でした。

本作は、「戦時の英雄譚」というような感でもありません。一介の指揮官と部下達が、何とか生き残ろうと必死だったという姿が、淡々と描かれる物語という感です。

実は<オクチャブリ>では、この作品を小ホールで上映する他方、一部は大ホールで上映しています。多分、大ホールでの上映が設定されるのは、公開の最初の方だけだと思います。今般、その大ホールでの上映の回に作品を鑑賞する機会が得られました。

作中には「1942年のロシアの戦線」に在った、KV-1や各派生型のT-34というソ連戦車、4号戦車の各派生型ということになるドイツ軍戦車やハーフトラックが「本物?!」という感じで動き回っています。そして両軍の戦闘機が上空を舞う短い場面も在ります。凄く手が込んだ画創りが為されていて、大スクリーンで観ると凄まじい迫力でした。

「死なないように…して欲しいの…」という感で必死な主人公達の様子は、観ていて少し熱くなるものも在りました。観た後は、多少の余韻に浸ってしまいます
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:24Comment(0)カルチャー

ネベリスク:在ユジノサハリンスク日本国総領事館による<日本文化紹介事業>(2018.10.24)

サハリンには「在ユジノサハリンスク日本国総領事館」という日本の在外公館が設置されています。こうした在外公館には色々な役目が在る訳ですが、その一つに「管轄地域内の人々に日本文化に親しんで頂くような取組」が在ります。

在ユジノサハリンスク日本国総領事館では、日本の中高生に相当する年代の生徒達に向けて、学校を訪ねて文化紹介を行うことに取組んでいます。その種の催事は、ユジノサハリンスクでの開催ということが多くなる訳ですが「サハリンの他の地域での開催?」ということになり、稚内市との永い友好都市交流の経過が或るネベリスクでの開催ということになりました。

そういう計画が決まり「稚内市との永い友好都市交流の経過」に鑑みて、稚内市サハリン事務所にも何か関係の話題での講演と、文化体験での講師役という要請を頂き、筆者がそれに参加する運びとなりました。

訪ねたのはネベリスクの<第3番学校>です。1年生から11年生までの600人程度が学ぶ学校とのことです。場所に関しては、稚内市内の高校生とネベリスクの高校生相当年齢生徒とによる<サハリン友好都市青少年交流>でネベリスクを訪れた際に立寄っている場所でした。

ネベリスク市内には永く4つの学校が在ったということですが、2007年の地震災害で各校舎が傷んだこと、そして災害後に地域の人口が流出したことに鑑みて、学校は<第2番学校>と<第3番学校>の2校となったそうです。

<第3番学校>に関しては、地震災害後の2010年に完成した校舎を使用しています。「概ね400人が学ぶ」というような想定で建てられた校舎ですが、近年は「人口減少が多少落ち着き、災害前の人口に回復したでもない他方、児童生徒の数が多少増えた」という様子だということでした。

ネベリスク地区側、学校側ではネベリスク市内の2校と、隣町という形ながら日常からネベリスク市内との往来も盛んな“同一地区内”であるゴルノザヴォツクの学校の「9年生から11年生」、日本の中高生に相当する年齢の生徒達の参加を募りました。

そうしたところ、3校の「9年生から11年生」が130人程度、一部の教職員も加わってホールが溢れそうな参加者が集まりました。正直、驚きました。後から校長先生が言っていたのは、「あの子は8年生?」という生徒も散見したそうです。

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日本の文物に纏わる話題の講演に、多くの生徒達や教職員が関心を寄せてくれていました。様子を視る限り、皆さんがなかなかに真剣に話しを聴いていました。

最初は「日本の高校?」という話しです。学校が小学校、中学校、高校と在ることや、高校でのクラブ活動や学校行事、高校生を対象とした「将来の夢」というアンケートに関する話題等を取上げました。

続いて、筆者が担当したのですが、稚内とネベリスクとの交流に関することです。

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稚内とネベリスクとの友好都市提携は46年前の1972年で、最年長が17歳というような集まった生徒達にとっては、多少想像し悪い昔です。「ソ連の指導者のブレジネフが米国のニクソン大統領と会談」という出来事が在ったと言っても、そういうのは“歴史の教科書”に出て来る挿話です。1972年には冬季が札幌、夏季がミュンヘンというようにオリンピックが開催されましたが、生徒達にとっては「冬季と夏季が交互に2年毎」という90年代以降のやり方の方が馴染んでいる筈です。

そういう古い時代、更に古い時代に<稚斗航路>で結ばれていたという縁等に鑑みて友好都市提携が行われたのでした。そうした歴史や、往年の航路が発着した辺りに築かれた稚内港北防波堤ドームのことや、当時走っていた鉄道車輛に関すること、稚内港北防波堤ドーム建設の際に参考にしたというコンクリート橋梁のこと等を話題にしました。

そして、北海道とサハリンとを結ぶ定期交通路が確立する少し前の時期、ネベリスクの人達が「交通手段が無い?では、そこに在るヨットで訪ねてみよう」と挑戦したことが端緒となって、やがて交通路が確立して行く中で地域間の交流が盛んになって現在に至っていることも御紹介しました。

話しの中で、稚内とネベリスクとが友好都市提携を行った1970年代頃には、蒸気機関車の運用を止めた、路面電車を廃止したというような、「世の中の様子の変化」も色々と見受けられた時代であったということも話題にしました。

全部ロシア語で、100人規模の生徒達に一定の纏まった話しをするというのは、然程機会が在るでもないので何日間かで準備をしたのでしたが、反応は良好でした。というよりも、「他所の人が学校にやって来て、何やら話しをする」ということに「関心を持って耳を傾ける」という姿勢が強く感じられました。

その後は文化体験です。総領事館で招聘した著名な講師であるアレクサンドラ・クドリャショーワさん達による生け花の体験の他、総領事館の皆さんが囲碁や将棋の体験教室を催しました。更に筆者は書道の担当です。

書道の体験には、色々な意味で日本語や、彼らの目線では「不思議なモノ」に視えるであろう日本で使う文字に好奇心を抱く生徒達が集まっていました。

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最初に、日本語の文字に関して、最初は漢字が導入され、カタカナや平仮名が登場して現在に至っていることや、日本の学校では漢字の読み方、書き方、意味を学び、小学校の6年間で概ね1000字を学ぶということを御紹介しました。

そしていよいよ書道に挑戦です。筆を使って文字を書く訳ですが、漢字を使わない国々の人達は「描く」という感覚を抱くのが通例です。そこで、これは「描く」ではなく「書く」であると説き、“永”という文字を使って説明される「基本的な運筆」、所謂<永字八法>から試しました。

暫らく練習してから、四季を示す「春夏秋冬」の字や、“愛”や“夢”というような好まれそうな言葉の字を書いてみました。皆さん「どうしてこういう具合に!?」と不思議がったり、「何となく好く出来たかな?」という按配で各々に挑戦していました。漢字が意味も併せて示す“表意文字”であることを話題にしていましたが、生徒達の中には書いてみた感じの脇に、意味をメモ書きしているという例も見受けられました。

講堂での講演の際は然程気にならなかったのですが、この催事にはネベリスクで「地元の話題を伝えるコンテンツ」も制作しているケーブルテレビの<ネベリスクTV>が取材に入っていました。<日本文化紹介事業>のことが、そして参加した生徒達の様子がネベリスク地区の多くの皆さんにも紹介される訳です。

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学校で色々なことを学ぶ一環として、隣国日本に纏わることを大きく取り上げて頂けていること、率直に嬉しく思う面が在りました。今般の催事に限定ということでもなく、学校では一寸した絵画作品の制作で「テーマは…“日本”にしよう!」というようなこともしていて、そういう生徒達のイラストが貼られた場所も校内では視掛けました。

或いは、ここで「日本語の文字」という話しを耳にした生徒達の中から、遠くない将来に日本語を学んで何かに活かしてくれるような例が一つでも出てくれば、それは望外の喜びです。

稚内市サハリン事務所では、在ユジノサハリンスク日本国総領事館等の関係機関とも手を携え、こうした文化交流に協力して行きたいと思います。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:14Comment(0)カルチャー

後藤悠樹 写真展<サハリンを見つめて>(2018.10.12)

稚内市サハリン事務所には、ユジノサハリンスク等で催される日本関連の催事の御案内等が寄せられる場合も在り、それらを受けて足を運ぶ場合も在ります。

そういう御案内の一つということになるのですが、写真展に関する御案内を頂きました。

後藤悠樹(ごとうはるき)さんという若い写真家の作品展でした。

↓後藤悠樹さんという方は、最近『サハリンを忘れない』という本を出したことで話題になった方です。

サハリンを忘れない 日本人残留者たちの見果てぬ故郷、永い記憶




後藤悠樹さんは、2006年に初めてサハリンを訪ねたとのことです。その際に、様々な事情で第2次大戦後に日本へ戻ることがなかったという日本人やその家族と出会い、以降何度もサハリンを訪れて、その人達の暮し等をテーマとした写真を撮り続けて来たという方です。上記の本は、その取材経験のことを軸に豊富な写真で構成されているというものです。

実は「何度もサハリンに来ている日本の写真家が最近本を出して、近くユジノサハリンスクで写真展が」と、後藤悠樹さんと交流の在る方が口にしていたのを耳にしていて、「その写真展が催されたら是非…」と考えていました。御案内が在って「これのことだ!?」と、期待して足を運んだのでした。

↓会場となったのはサハリン州立美術館です。
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↑往年の「北海道拓殖銀行豊原支店」であった建物を利用した美術館は、年に何回もの企画展を催行する展示ギャラリーという感の場所です。今般の写真展もそうした企画展の一つということになります。

10月12日の夕刻、この写真展の「オープニング」ということで大勢の皆さんが集まりました。後藤悠樹さん御本人も、取材で知り合った、様々な事情で第2次大戦後に日本へ戻ることがなかったという日本人やその家族の集まりである<サハリン日本人会>の年次総会が催行されるということも在り、写真展に合わせてサハリンへやって来ました。

現在、美術館の大きいホールでは「根付」の展覧会が開催中で、写真展は入口寄りの小さ目なスペースを利用して開催されています。

>>古くて新しい?“НЭЦКЭ”:巡回展「現代・木彫・根付」(2018.10.02)

写真展の「オープニング」の中、サハリン州政府、ユジノサハリンスク市、在ユジノサハリンスク日本国総領事館と各代表からの挨拶の後、後藤悠樹さん御本人のコメントが在りました。

後藤悠樹さんが出会った、様々な事情で第2次大戦後に日本へ戻ることがなかったという日本人の中には、「“敗戦国”に出自を持つ苦悩」のようなモノが強く、「何度も死のうと思うことさえ在った」としながらも「生き続ける」ということを選んで現在に至っているという方も多く在るといいます。そういう人達に寄り添う型となって、様々な人生を伝える写真作品を撮影することとなりました。そうした作品を集めた写真展を、そんな人達に贈りたいということでした。

↓写真展には、少し大きくプリントした写真が多数展示されています。
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↓他に、過去に発表した写真を小さくプリントしたモノを多数纏めて掲示したコーナーも在りました。
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後藤悠樹さんがサハリンで取材活動を始めてからの10年間余りで、ユジノサハリンスク等では新しい建物が登場しているような例も多々在りますから、「街の移ろい」が期せずして記録されているような側面も在ります。結局、街並みがドンドン変わる多方で、山の稜線のような自然の様子は昔から変わっていないという、後藤悠樹さんが取材している様々な人生をサハリンで送っている皆さんの目線にも重なるのかもしれません。

後藤悠樹さん御自身にとって、祖父母や更に上の世代である場合さえある皆さんに寄り添いながら、文字どおり「サハリンを見つめて」撮られた作品で、なかなかに見応えが在りました。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 09:14Comment(0)カルチャー

古くて新しい?“НЭЦКЭ”:巡回展「現代・木彫・根付」(2018.10.02)

サハリン州立美術館―建物は往年の「北海道拓殖銀行豊原支店」を利用しています。―の前に看板が掲出されていました。

↓この美術館は随時“企画展”を催しており、何時もこの種の「現在実施中の企画展」を紹介する看板が掲出されています。
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とりあえず看板の半ばの左側に“НЭЦКЭ”という文字のロゴマークのようなモノが在るのに目を留めました。この“НЭЦКЭ”で「ねつけ」と読む訳です。当初は「何かの長い長い名称の研究機関か何かの略称??」とも思ったのですが、これは「根付」のことでした。

正直なところ、「ねつけ」というように耳で聞いても直ぐに何のことかは判らない場合も在るような気がします。「根付」となれば、筆者の様な時代劇ドラマファンは「江戸時代に盛んに使われていた小物」と思い至ります。

一寸したモノを入れる袋のようなモノを手で持ち歩くのは少々煩わしい場合が在るかもしれませんが、着物で動き回る場合にはポケットが在るのでもありません。そこで、モノに紐を付け、帯の下側にそのモノを提げ、帯の下に紐を通して“留具”を付けて帯の上側に引掛けるようにしました。その“留具”のことを「根付」と呼ぶのです。

↓今般の巡回展「現代・木彫・根付」でも「こういう具合に使うのが本来の用途」という具合に写真付きで紹介していました。
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この「根付」は、江戸時代に入ってから利用される頻度が高まったようです。最初は極簡素な実用本位なモノが造られて利用されていたようですが、次第に装飾的要素が高まって、手が込んだ彫刻や仕掛けを施したモノまで現れたようです。

時代劇ドラマファンの筆者は「根付」と聞いて「江戸時代に盛んに使われていた小物」と思い至りました。それは「根付」は、職人が拘った独特な細工を施していたり、裕福な人達や身分の在る人達が特注で変わったモノを造らせているという例が多々在ったことを踏まえて、「事件の物証」のように劇中で扱われる場合が色々と在るのです。そういう妙なことを連想したのでした。

今般の巡回展「現代・木彫・根付」ですが、日本の<国際交流基金>による「各国で日本の現代の工芸を紹介する」という趣旨の催しです。

江戸時代を通じて発展した「根付」ですが、次第に着物から洋装が主流になって行く中で、然程多く作られなくなって行きます。が、他方で“骨董品”、“蒐集品”として「技巧を凝らした繊細な彫刻作品」という評価も高めて行きます。かなり細々と制作が続けられていたという「根付」ですが、国外の蒐集家等からの高い評価も在って制作が続いた他、「ユニークな彫刻表現」として新たに「根付」を制作する作家も現れるようになったようです。デザインに制約が在る訳でもないですから、独創的な形のモノもドンドン登場しています。また近年は、造形に用いる様々な新しい素材も在りますから、そういうモノを利用して工夫する例も見受けられるようです。

巡回展「現代・木彫・根付」では、そうした「現代の工芸・美術作品」としての「根付」を紹介しています。

↓美術館のメインのホールに陳列ケースが据えられ、制作の様子を紹介するビデオを流すスクリーンも設置されています。
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↓陳列ケースの中に「宝石?!」のように作品が並んでいます。
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↓恐竜の骨格のような、複雑な形状の空洞部分が在るような、高度な技術を要するような作品が在りました。
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↓鍵盤の形を採り入れた、「和装に用いる小物」というイメージでもないような感じの作品も眼に留まりました。
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↓玉のような形が「パカッ」と開き、中にも細かい細工が施されたモノが入っているという、仕掛けを施した作品も在りました。
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※ 入場券(80ルーブル)の他に撮影券(100ルーブル)を求めると、写真を撮ることも許可されます。

独特な感じの、様々な作品が展示されていて、なかなかに興味深い展覧会でした。

↓地元の皆さんも多く集まっていて、関係者の方が「“根付”というモノの展覧会で…」と紹介しているような場面も見受けられました。
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これを御覧になった方に御感想を伺う機会も在りましたが、「これまでに視たことも、聞いたことも無かった“新しい”モノだと思った」ということでした。

江戸時代を通じて発展したという「伝統工芸」と言い得るような要素が在る他方、「独創性を発揮して技巧を凝らす」という現代美術の作品でもある「根付」です。「新しい観点」での、日本文化の紹介かもしれません。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:01Comment(0)カルチャー

久し振りにカフェバーでライヴを少し愉しんだ週末の夜(2018.08.17)

ユジノサハリンスクに在っては、「夕方から夜に営業の飲食店等が集まっている地区」というようなものは見受けられません。その他方で、「夕方から夜に営業の飲食店等」は市内の方々に見受けられます。そしてそうした店の中には、週末の夜にバンドが入って生演奏をしている例も意外に多い様子です。

稚内での催事の準備に勤しみ、同時に催事関係で稚内へ戻る予定も在る中で「一寸、気分転換…」と思っていると、他バンドの稚内公演という出来事を介してメンバーと知り合っている<Dream Box>のライヴが週末の夜に催されるということを知りました。

<Dream Box>のリーダーであるゲオルギー・ゾボフさんと女性ヴォーカリストのエレーナ・アクシェンツェワさんは、稚内で過去4回の公演を行っている<ヴレーミャ・ジャザ>に参加していた経過が在ります。

↓稚内市のホームページに過去の記録が在りました。

>>多数の御来場ありがとうございました。<ヴレーミャ・ジャザ>稚内公演終了。(2012年6月17日)
>><ヴレーミャ・ジャザ>のコンサートについて(2010年7月)
>><ヴレーミャ・ジャザ>のコンサートについて(2009年7月)
>><ヴレーミャ・ジャザ>のコンサートについて(2007年10月)


この<ヴレーミャ・ジャザ>は、「2007年の稚内初登場」の後、寧ろ<ジャズ・タイム>と英語名を使うようになったのですが、稚内では初登場した時のクオリティーが高い演奏のインパクトが非常に強かったので「あの<ヴレーミャ・ジャザ>が還って来る!!」とロシア語名を使い続けていたという経過が在ります。

現在も<ジャズ・タイム>は、機構の改編やメンバーの入れ替えも経ながらサハリンで積極的に活動を続けています。

↓このブログでも<ジャズ・タイム>が登場した催しを御紹介した経過が在ります。

>>『国際日露文化フェスティバル 2017』オープニングコンサート(2017.06.25)
>>ジャズの夕べ <チョコレートのようなジャズ>(Вечер Джаза "Джаз в Шоколаде")(2017.04.30)

話しを<Dream Box>に戻します。

振り返ると、昨年の5月下旬に彼らのライヴを愉しむ機会が在りました。以降、残念ながらなかなか機会を設けられずに居ました。

>>週末の夜にカフェバーでライヴ(2017.05.27)

昨年の機会では、リーダーであるゲオルギー・ゾボフさんが都合でサハリンを離れていた中での演奏でした。戻ってかなり経っている訳ですが、今回は不在の頃と選曲やアレンジがかなり変わっている感じでした。

↓会場は、バーカウンターの後ろ側の高くなっている箇所をステージにするという具合で様子は変わりません。
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↑週末の夜は、時季によって多少の差は在りますが、こういうお店がとにかく賑わいます。

以前の「ロック系統?」という選曲に比べると、「所謂ポップス系?」ということになるロシア内外発のヒット曲のカバーという割合が高い感じでした。マイケル・ジャクソンの有名な『ビリー・ジーン』のカバー等は秀逸でした。

↓カウンター辺りが何となく混雑し、少し高いステージの近隣に押し出されたような按配になりました。結果的に、演奏している皆さんの溌剌とした様子を間近で観ることになりました。
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↑左のゲオルギー・ゾボフさんはシンセサイザーを演奏しながら、リードボーカルもコーラスもこなしていました。真中のエレーナ・アクシェンツェワさんも表情豊かに、楽しそうなパフォーマンスで魅せてくれました。

ユジノサハリンスク等のサハリンの街では、ジャズやポップスやロック等を演奏する様々な人達が積極的に活動していて、色々な場所で様々な形で演奏が披露されており、それらを愉しむ人達も大勢居る訳です。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:00Comment(0)カルチャー

『第9回 国際陶器野焼きフェスティバル』:ネべリスク(2018.07.27)

ネべリスクでは、今や「夏の風物詩」、「街では最大級の催事」となっている<野焼き>の時季が巡って来ました。

この<野焼き>は、正式には『国際陶器野焼きフェスティバル』と呼ぶそうですが、今年で9回目ということです。7月27日に催された開会式に御招きを頂いたので、ネべリスクを訪ねてみました。

この日のネべリスクはよく晴れて、気温も少し上がり、日中には海霧が発生していましたが、夕刻に至っても好天が継続していた日でした。「絶好の催事日和」です。

↓<野焼き>の準備で、会場の一画に薪を積み上げた場所が設えられています。
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この薪の設えが落ち着いた辺りの午後6時頃から、会場がオープンする感です。ハッキリ「オープン」としないのは、午後7時台に様子を視ても、特設ステージで色々な準備も行われ、その脇で若干の出店が営業を始め、ポツポツと来場が見受けられる感で、「やっている?」という雰囲気も漂っていたからなのですが。

↓会場の一隅で、「陶器づくり体験教室」が催されていました。
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↑小さな子どもから大人まで、多くの人達が順番に指導を受けながら作品を形にしていました。

↓午後9時半予定の開会式が近付くと、次第に人が多くなり「オープン」というムードも高まります。
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↑小さな街の「サマーフェスティバル」という趣です。家族連れで、或いは親しい人同士で誘い合ってという感で、ドンドン人が増えていました。

↓予定の午後9時半を少し過ぎてもなかなか開会式が始まらず、少し不思議に思ったのでしたが、この日は好天で何時もより明るい感じが少し長く続き、「ステージの照明効果」を慮って、少し開始を遅らせたのだということでした。
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↑結局午後9時45分頃に開会式が始まりました。スクリーンに画を映しながら、照明や音楽でショーアップし、賑々しく開会式が始まりました。この種の催しを視ると、何時も「ロシアは舞台芸術が得意な…」というようなことを思います。

開会式の中で、この催事に長く携わっているサハリンの作陶家であるナターリャ・キリューヒナ氏が、経過を交えたコメントをステージ上でされていました。

キリューヒナ氏は日本の作陶家である岡井仁子氏と交流が在って、岡井氏が行っていた<野焼き>への参加、或いは合同展の開催ということをしていたそうです。そうした中、「友好の火、創作の火、平和の火」ということで、サハリンの地で<野焼き>を催すことを思い立ち、岡井氏の協力を得て催行したというのが、この<野焼き>の事始めということでした。

2010年からネべリスク市の「ノーヴァヤ・ゼムリャ」と呼ばれる場所を会場に、<野焼き>は続けられており、「独特な文化的な催事」として高く評価され、ネべリスク地区の皆さんばかりではなく、サハリン各地やロシア極東各地からの参加も見受けられるようになって来ているとのことです。

因みに「ノーヴァヤ・ゼムリャ」とは「新しい土地」という意味です。ネべリスクでは2007年に直下型地震が発生し、多くの建物が損なわれて街の再建に努力した経過が在りますが、この「ノーヴァヤ・ゼムリャ」は「地震で隆起した新しい地面」なのです。海側に突き出た広場のようになっています。

↓華やかなステージで始まりましたが、いよいよ薪に点火します。
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↑点火する役が割当たった皆さんが松明を手に薪の周りに集まります。

↓火が点くと喝采が沸き起こりました。
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↑この薪の中に、用意された陶器作品が入っていて、27日の夜から29日の朝に掛けて焼き上げるのです。

↓「火」という漢字は、「形を抽象して出来た」というような話しを聞いたような記憶も在るのですが、こういう炎を視てそんな話しを不意に思い出しました。
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↓薪に点火してから程なく、盛大に花火です。
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この催事の期間中、ネべリスクでは方々の作陶家が指導を行う「陶器づくり体験教室」が盛んに行われ、特設ステージで賑やかな音楽や踊りが繰り広げられます。

↓<野焼き>の炎を眺めながら、遅くまで『ミュージックマラソン』と銘打って、ステージで様々な歌や演奏や踊りが披露されていました。
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日ロ両国の作陶家による交流が切っ掛けで起こった催事が、「街を代表する催事」に育って根付いています。来年は「10回目」ということで、早くも「“記念”でもっと盛り上げよう!」という話しになっているそうです。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 11:07Comment(0)カルチャー

<樺太時代の記憶を留める書籍>展(2018.07.03)

↓稚内市サハリン事務所から、歩いて3分程度の場所に<州立総合科学図書館>が在ります。「ハバロフスク通」という住所にはなっているのですが、レーニン通に面している側に入口が在ります。
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↑単に<州立図書館>と呼ぶ場合の方が多い場所ですが、様々な文化行事の舞台にもなる場所です。

<州立図書館>を含むサハリンに在る幾つかの機関に、「樺太時代の豊原市内の図書館に在った」、「樺太時代の研究機関等に在った」とされる書籍、雑誌等の図書資料が伝えられている例が見受けられるそうです。

この程、<ロシアにおける日本年>の一環という位置付けで、それらの資料の一部を州立図書館入口ホールに展示し、樺太時代の経過を広く一般に紹介する<樺太時代の記憶を留める書籍>展を催す運びとなりました。

そのオープニングが<州立図書館>で催されました。40人程度が集まり、様々なメディアの取材も入っていました。

今回の展示では、<州立図書館>と<海洋地誌研究所>とで所蔵する資料を中心に展示を行っています。

<州立図書館>所蔵の資料は、「豊原市内の図書館等のモノ」が中心で、書籍、雑誌、学術論文等であるということです。

1948年頃、現在の図書館の直接的な前身ということになる図書館の機構が成立し、資料として収蔵された「豊原市内の図書館等のモノ」ということになる資料は永く然程顧みられることもなく、余り研究は進んでいなかったとのことです。1990年代以降、この種の所蔵資料が注目されるようになっているとのことでした。

↓1940年代までの雑誌です。
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↑「樺太時報」という題名や「一月號」(「號」は「号」の旧字)という横書きが「右から左に読む」という、この位の時代までに見受けられた方式で書かれています。そして、当時のモノクロ写真が綺麗に刷られています。

↓1926年に発行されたと推定されている百科事典です。
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↑「昭和の初めの百科事典」で、「どういう項目が収められている」のかも気になりますが、この本も分厚い表紙に書かれた横書きの題名が「右から左に読む」という方式です。

<海洋地誌研究所>は、樺太庁による研究機関の活動を引き継いで行くようなことを念頭に、1940年代後半に体裁を整えて行った研究所であるとのことです。その樺太庁の下に在った機関が所有していた「島での生活を伝える、永遠の命を持つ本」―説明にあたった担当の方が読んだ、研究所長のメッセージに在った言葉が好かったので拝借しました。―と呼ぶべく貴重な資料が研究所に所蔵されて、受け継がれているとのことです。

<海洋地誌研究所>の所蔵資料は多岐に亘るとのことですが、「研究機関の所有物」であった性質上、図鑑、事典というようなモノが目に付くようです。広く眼に触れる型で陳列されること自体が「多分初めて」というモノも交じっていると紹介されました。

↓そんな図鑑の図版ページが開かれた状態でケースに展示されていました。
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↑海獣の図版ですが、何処となく「日本画?」なタッチの画で面白いと思いました。

開会時の<州立図書館>の館長さんによる挨拶の中、「この図書館を擁するサハリンは“文化の交差点”とでも呼ぶべき経過も在る地域です。この展示会に関しては、殊に若い世代の皆さんに関心を寄せて頂けると嬉しいと思います」とされていました。印刷物として出回った、図書館の所蔵資料ですが、寧ろ「史料」と呼ぶべきと思われるモノが色々と在る訳です。一部、往年の紙幣や硬貨の展示も見受けられます。ざっと視た感じで40点程が紹介されていましたが、7月末まで展示を続けるとのことでした。

更にこれらの資料に関しては、今後の様々な研究に活かす途を探りたいとのことでした。貴重なモノを眼にする興味深い機会となりました。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 14:08Comment(0)カルチャー

<Выпускник 2018>(ヴィプスクニク 2018)―社会へ巣立つ若者を壮行する日(2018.06.23)

早朝の好天が午前中の間に下り坂となり、曇りがちでやや薄暗く、時々小雨が交じる土曜日でした。

その土曜日の夕刻になると、何やら「外で音が鳴っている」というのが住まい室内に居ても判る状態が生じていました。建物の出入口前の戸外で様子を伺いました。

「外で音が鳴っている」という状態で、少し距離が在る場合、「漠然とした音」というように聞こえるものだと思いますが、「“音楽”であることが判る」という聞こえ方でした。こう言うと、音を発しているのが100m以内位のような話しに思えるかもしれませんが、音が発せられている場所は400m位離れていると見受けられる場所です。

↓こういう状況が見受けられました。
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↑ユジノサハリンスク市行政府本庁舎の前にステージが設えられ、庁舎と向き合ったレーニン広場辺りのレーニン通が車輛通行禁止となり、「屋外ライブ」という状況になっています。

実は前々日の木曜日の夕方には既に「何かの機材が積まれている?」という状況が庁舎前に見受けられ、前日の金曜日には「ステージが?」という状態になっていました。土曜日に“本番”となった訳です。

↓「レーニン通の路上からユジノサハリンスク市行政府本庁舎を視る」という状況になっています。この状況自体が、「この場所で交通規制をして催す催事」という状況以外では、あまり考えられない状況です。
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↑小雨が交じるような状態で、「人々が溢れる」という程でもない感ではありました。路面が雨で湿り、ステージの照明が反射している感じです。

400m程度は離れた遠くに居ても「“音楽”であることが判る」という聞こえ方だった音ですが、近くへ行けば「重低音のリズムの“音”が胸や腹に“ぶつかる”」ように感じる程度な、然程頻繁には経験するとも思えないような大音量で驚きました。

↓とりあえず現場に着いて直ぐ、「何の催し?!」と思って見付けておいた看板です。
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↑<Выпускник 2018>(ヴィプスクニク 2018)と在ります。

「Выпускник」(ヴィプスクニク)は「学校の卒業生」というような意味で、催しの名を示す看板は「2018年の卒業生に贈る」という程の意味合いなのでしょう。

この種の催しは毎年在るようです。若者が学校を卒業することを祝い、社会へ巣立つ彼らを壮行する日という次第です。

こういうような催事を視ると、「若い世代を温かい目線で」というような、「社会の雰囲気」が何となく伝わるような気もします。同時に、会場は「交通量が多めな道路」に交通規制を行うような場所で、警備に一群の警察官が登場し、柵を設けて通行や出入を見守るような「少し大袈裟?」にも視える様子で、「酷く力が入っている?」と驚かされます。

午後から夕刻の時間帯に続いていた、様々な音楽が演奏され、歌われていたライブですが、午後10時頃にフィナーレに花火が上がって終了しました。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 07:00Comment(0)カルチャー

ТОКИКО КАТО=加藤登紀子さんがサハリンへ(2018.06.19)

↓見覚えが在る、日本の有名アーティストの写真が入った、大きなバナーが登場しているのを視掛けました。
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↑来る6月21日に催される加藤登紀子公演を伝えるものです。

様々な団体の協力の下、加藤登紀子公演がユジノサハリンスクで催される運びとなりました。

御本人を含む一行は、6月19日にサハリン入りし、公演等を行った後にウラジオストクへ移動し、6月24日にはウラジオストク公演―ウラジオストクでもポスターが掲出されていると聞きます。―も催して帰国するそうです。

↓ユジノサハリンスクの劇場である<チェーホフセンター>の、最大級の広告バナーのスペースに、大きなモノが設えられてかなり目立ちます。
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加藤登紀子さんと言えば、ロシアのヒットソング『百万本のバラ』の日本語カバーでよく知られていますが、公演チケットの売行きは好調であるとの噂です。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 06:59Comment(0)カルチャー