<遠藤米七記念碑 メモリアル>の除幕式(2018.07.19)

ユジノサハリンスク都心部の少し北東に寄った辺り、<ガガーリン公園>の出入口の一つ、大きな池が在る辺りに「非常に目立つ大きな建物」が在ります。

↓<メガパレスホテル>というホテルです。
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↑近くを通ると「仰々しい感じのビル…」と、思わず見上げてみたくなります。

2006年にオープンしたホテルです。

↓オープン当時の様子を御紹介した記事が、稚内市ウェブサイトのサハリン関係のコーナーにも在りました。
>>極東一を誇る「メガパレスホテル」がグランドオープン(2006年5月)

地上10階建てで地下も利用されている建物なのですが、幅が広い構造物が複数組み合わさっているような外観で、辺りは公園で背が高い建物が無いことから、物凄く大きく視えます。

宿泊施設の他に、レストランやナイトクラブが在り、会議室等も色々と利用されている施設です。ホテルは、連邦政府の要人がサハリンを訪れた際に滞在することがある場所としても知られています。

下記のホテルのウェブサイトで、館内の写真等が色々と御覧頂けます。

↓<メガパレスホテル>のウェブサイト(露語)
>>Mega Palace Hotel - Главная

話しは、この大きなホテルが建設されようとしていた2003年に遡ります。

<メガパレスホテル>の運営に携わる会社のアン会長は、自身の会社で手掛けようとする、サハリン随一の規模、極東屈指のものになる筈のホテルが出来上がる様子を思い描きながら、建設予定地を検分していました。

2003年頃というのは、サハリンでの資源開発を軌道に乗せようという動きが活発であった時期に相当し、俄かにビジネスマン等のサハリンへの出入りが盛んになっていた中、ホテルビジネスに注目が集まっていた時期でもあります。そして社会資本の整備が進み、商業や各種サービス業も盛んになって行き、地域の人達の所得も伸びていたという時期です。そうした追い風を受け、<メガパレスホテル>の計画も注目されていたようです。

アン会長は、そのホテルの建設予定地の中に、奇妙なコンクリートの塊が立っていることに気付きます。道路側からも視えたそうですが、概ね4mもの背が高い構造物でした。

「一体、これは何なんだ?」とアン会長は思い、そのコンクリートの塊を視ながら考えたそうです。「この型は、記念碑の台座か何かではないか?」とです。そして「恐らく、旧い時代に大切にされていたのであろう。粗末にも出来ないのではないか?」と思い、「これを保存し、可能であれば少し綺麗に整備すべきではないだろうか?」との考えに至ったそうです。

そこでアン会長は関係者を集めて協議し、不思議な“台座”を保存すべく、ホテルの建物を建てる場所を数メートル道路側にスライドさせました。そして“台座”はホテルの建物の裏、レストランのテラスの脇に残ったのです。

その後、「現在の<メガパレスホテル>の場所に、4メートル程度の高さの、記念碑の台座らしきモノが在る。あれは一体、何なのか?」という疑問が解決されるまでに数年を要しました。地元の歴史研究者等、色々な方に尋ねながら調べ続け、コンクリートの台座が1936年に建立された<遠藤米七記念碑>の台座であったことが判明しました。

「遠藤米七」という人物は、樺太時代の実業家です。建設業を核とする企業グループ<遠藤組>の創業者で代表を務めていた他方、1920年代に設立された豊原商工会議所の初代会頭を始めとする公職を多く歴任し、他方で数々の社会事業への協力を惜しまず、方々への多額の寄附を行った篤志家としても知られた人物とのことです。

日露戦争後、南樺太に移り住んだ最初期の入植者達の中に、遠藤米七の姿が在りました。遠藤米七が営んだ<遠藤組>は、様々な社会資本整備や施設建設の需要が在った南樺太で、建設業者としての実績を積上げて成長を遂げて行きました。<遠藤組>が手掛けたという建物等は現在でも残っているものが見受けられるとのことですが、最も有名であるのは往時の<樺太庁博物館>の建物、現在の<サハリン州郷土博物館>の建物ということになるでしょう。

1935年に遠藤米七が逝去し、翌1936年には当時の豊原市長が発起人となって記念碑が建立されたとのことです。

↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>の除幕式の会場に、1936年建立の記念碑の写真が展示されていました。
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↑4m程の台座に、3m程の銅像が乗っていたのです。

↓外観を美しく整えた台座に幕が掛かった状態のものが、40人程度集まった除幕式の参集者やメディア関係者を迎えました。
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↓そして、アン会長とゲストの平野駐ユジノサハリンスク日本国総領事とで除幕が行われました。
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大きな建物を建てようという場合、「数メートル位置を変える」というようなことは、簡単には出来ないようにも見受けられますが、そうまでして「大切な記念碑」を伝えようとして頂いた関係者の皆さんの御尽力には感謝しなければならないでしょう。

↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>は<メガパレスホテル>の裏に、こういう具合に佇んでいます。
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↑館内に入って、レストランを通り抜けてテラスに出る以外には、道路側から正面入口の左側に向かって壁沿いを進み、テラスの辺りに至れば直ぐに近付けます。

↓記念碑と、その台座が保存された経過を記したプレートです。
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「樺太時代」を伝える、「旧くて新しい場所」が登場しました。
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スキー場<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>の山頂にて…(2018.07.08)

ユジノサハリンスク市街の東寄り、丘の上に在るスキー場<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>は、オフシーズンには「大展望台」の様相です。

日曜日の午後―と言って、午後5時台でしたが―に、「久し振りに好い感じの晴天」であった状況に誘われて戸外に出て、ゴンドラで山頂に上ってみました。

↓「何時の間に立っていた?」という、少し面白い看板を見付けました。
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↑ロシア国内では携帯電話等で御馴染の通信会社が提供した、広告も兼ねたモノですが、「ユジノサハリンスクから方々への方角や距離」が示されているような看板です。

「遙かな北西」のサンクトペテルブルグは、ユジノサハリンスクから9772㎞とのことです。「少し南西」のウラジオストクは1651㎞とのこと。

上の方から、この辺りまでは好いのですが、そこから下は「方角??」と思いました。

韓国のスキー場が1660㎞という距離は正しいのでしょうが、「南東?何故?」という感です。日本のスキー場の<ルスツリゾート>も447kmは正しいのでしょうが、殆ど「東」の方角を示しています。10406㎞のカリーニングラードや、913㎞のハバロフスクも「真北、または北東」という方角です。

↓「どうなっている?」と首を傾げ始めると、こういう状態に気付きました。
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↑「モスクワ9337㎞」というのが「ずり落ちた」ようになっています。何かの拍子に、この看板の「方角」は少しずれてしまったのかもしれません。

看板に掲げられた遠い土地ですが、何れも「地図上で直線を引いた距離」だと思われます。この種の看板は方々で色々な例を視掛けますが、視る都度に少し面白いと思います。
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ユジノサハリンスクの<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(2018.07.08)

日曜日の朝は雲が多い感じでしたが、天候は時間を追って好転し、午後からは「よく晴れている」という状態になりました。他方で、気温は20℃に届くか届かないかという具合でした。寒くはありませんが、暑いという程でもありません。爽やかな雰囲気でした。

↓久し振りに、“オフシーズン”は「大展望台」という様相のスキー場の上に上りました。
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↑往復で300ルーブルの券を求めて上った山の上から視えているユジノサハリンスク市街ですが、「日頃、動き回る機会が多い」ような場所は粗方が眼下に視えています。

下の中央やや左寄りに競技場や大聖堂が視え、右側に向かうと<ガガーリン公園>の緑地が在って、日本国総領事館も入居している<北海道センター>の建物が認められます。

気温が高いという程でもないので、遠景が「モヤーッ」とした雰囲気にならず、景色がスッキリと視えました。上空の雲は、一定の速さで流れていて、時間が少し経つと雰囲気が少し変わりました。

↓偶々ですが、丁度1年前にもこの場所に立寄っていました。
>>ユジノサハリンスクの<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(2017.07.08)

昨年は「急に暑くなった…」という中で、今年は「珍しく好天な休日」という中で、各々にこの場所に寄っています。

「街を一望」という場所は方々で見受けられるのだと思いますが、何れも一寸寄ってみて、なかなかに愉しい場所だと思います。ユジノサハリンスクでは、この<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>がそういう場所の代表格だと思います。
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<ガガーリン公園>として「50年」(2018.06.17)

ユジノサハリンスクの街の都心部で、北東寄りな辺りに「市民の憩いの場」として親しまれている<ガガーリン公園>が在ります。

街の少し東寄りを南北に延びているコムソモリスカヤ通を北寄り側へ進み、東西に延びるサハリンスカヤ通との交差点が視えるような辺りに公園の“メインゲート”が在ります。

↓<ガガーリン公園>という名前の由来になっている、「初めての有人宇宙飛行」を成し遂げたユーリー・ガガーリンの像が入口近くに設置されています。
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↑見上げるような感じになる、背が高い台座の上にガガーリン像が載っていますが、大きさが少し判り悪いように思います。ガガーリン御本人は小柄な方だったとは聞きますが、それでも等身大のようにも、等身大より一回り小さいようにも見える微妙な感じです。

↓普段から公園のイメージの看板、催事に因む飾りや御報せ、または広告らしきものが見受けられる場所ですが、ここに「公園の歴史」のような紹介が入った内容の看板が掲出されていました。
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↑画の左側、看板の一部にモノクロの人物写真が入っています。宇宙飛行士のユーリー・ガガーリンの肖像写真です。

「公園の歴史」の内容を読んでみました。

1906年、“豊原”の都市建設の中で現在地が「公園」ということになりました。1946年には、ユジノサハリンスク市における「公園」という指定を受けています。

1968年、「初めての有人宇宙飛行」を成し遂げたユーリー・ガガーリンが他界した際、「ガガーリンを記念した公共施設を」という市民の請願が起こり、この公園を<ガガーリン公園>と命名したということです。

2018年は、<ガガーリン公園>となってから50年、半世紀となった記念の年ということになります。

↓この日に初めて気付いたのですが、何時の間にか園内に在った看板です。未だ新しいモノのように見受けられました。
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↑「ハート」を「愛する」という意味の「リュブリュー(люблю)」と読ませ、「ヤー リュブリュー パルク」、「アイ ラブ パーク」ということにしている訳です。

この「ハート」を「愛する」という意味の語に読ませるという看板やイラストのようなモノは、方々で視掛けるような気がします。ロシアと言わず、日本国内でも少し前に視掛けました。

ユジノサハリンスク市内で、「公園」を意味する「парк」(パルク)という呼称を持つ場所は、この<ガガーリン公園>だけです。それ故に、地元の人達は<ガガーリン公園>を指し示して、漠然と「パルク」と表現する場合が多々在ります。

実際、昨年の4月、5月に筆者がユジノサハリンスクに来て、この漠然とした「パルク」を聞いて「何処の?」と思いました。ユジノサハリンスク市内には、日本国内の感覚で“公園”と呼びたくなる都市緑地が多く在ります。それらは「広場」を意味する“сквер”(スクヴェール)と呼ばれていたり、近くの目印になるモノを挙げてみる、「〇〇通と〇〇通との交差する辺り」という言い方をするなどして場所を特定しています。

<ガガーリン公園>で待ち合わせでもしようということになれば、「パルクで会おう!」ということになりますが、厄介なのは公園が広いことです。そういう場合には「パルクの〇〇の場所で会おう」と言います。そういう場合の「〇〇」の例として、ガガーリン像は御馴染な例の一つということになります。
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<稚内市樺太記念館>(2018.05.26)

今回は「稚内市内」のお話しです。

5月25日、稚内市内の<稚内副港市場>に<稚内市樺太記念館>がオープンしました。

<稚内副港市場>はJR稚内駅から然程遠くない国道40号沿い、稚内港の繋留濠となっている第一副港の辺りに在る―駅からゆっくり歩いて15分弱という感です。―施設で、館内には温泉浴場や飲食店等が入っています。ここに「通年開館の郷土資料館」と言っても差し支えない展示施設がオープンしました。

↓<稚内副港市場>の2階に在る、存外に広い場所を利用した施設となっています。
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全国樺太連盟から寄贈を受けた貴重な資料を中心に、展示内容を入れ替えながら展示するようになっているようです。

現在は樺太から引き揚げて来て活躍した経過が在る横綱の大鵬に関連する展示や、稚内と樺太とを結んでいた船が発着した稚内港北防波堤ドームに関係する展示が目立っています。

↓館の入口近くの大き目な柱に、古い樺太の絵葉書をポスター風にしたモノが掲出されていて、こちらも少し興味深く視ました。
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1905年から1945年の“樺太時代”を核に、サハリンやサハリンと関りが深い稚内のこと、その他の企画展示が行われる場所となります。今後の活動に期待したい、色々なことを学ぶことが出来そうな資料館です。

午前10時から午後5時の開館(入館は午後4時40分まで)となっています。
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上空から望むサハリン島西部の海岸線(2018.05.19)

現在、サハリンと日本国内を往来するとすれば空路を利用する他在りません。

ユジノサハリンスク空港と新千歳空港や成田空港とを結ぶ便の他、ウラジオストク空港へ飛んでから乗換て成田空港へ向かうというようなルートも在り得ます。他にも可能性が在るのかもしれませんが、そこまでは調べていません。

↓ユジノサハリンスク空港を離陸して、10分経つかどうかだと思いますが、機窓の様子です。
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↑天候が好いと、普段は視る機会が無い「上空からの眺望」が面白いので、経過した時間が気にならなくなります。

一時帰国のために搭乗した飛行機は西寄りな空へ上昇しました。山がちな地形が視えて、直ぐに海が見えました。そして西海岸です。

飛行機は後部の列、右の窓側に陣取りました。上の画は、概ね「南側から北側へ海岸の線を望む」ような感じです。
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旧 王子製紙眞岡工場(2018.04.24)

ホルムスクに立寄る機会が在りました。

樺太時代には「眞岡」(まおか)と呼ばれていたホルムスクには、樺太時代に建てられ、ソ連時代にも長く稼働していたた製紙工場の跡が見受けられます。

↓多少、御無沙汰していたので一寸だけ、この工場の跡を眺めました。
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↑集合住宅が建っている、少し高い辺りから、日本海を背景にした概ね全体の様子が視えます。

↓少し角度を変えると、「街中に巨大な廃工場?」というようにも視えます。が、街の中心のように見受けられる辺りから少しだけ離れた辺りにこの工場跡は在ります。
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↑未だ辺りの草が伸びておらず、何か「早春らしい感じ」もしました。

樺太時代、「摂政宮殿下の樺太行啓」の少し後、1925(大正14)年8月に樺太旅行をした北原白秋は、旅行のことを綴った『フレップ・トリップ』の中で、眞岡のこの工場を訪ねたことを綴っています。

フレップ・トリップ (岩波文庫)




背後の海を視ると、廃工場となっている現在も、北原白秋が見学したというような現役の工場であった頃も、「きっと同じように、穏やかな日には碧く輝いていた?」というような感慨も湧き起こります。
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<ヒストリーパーク ロシアの歴史>(2018.02.20)

パベーダ広場の大聖堂が在る辺りで、何やら凄い勢いで大きな建物の工事が行われていて、その建物に「新しい博物館」がオープンしたと伝えられたのが昨年11月でした。

↓こういう建物が登場しています。
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以来、その「新しい博物館」を訪ねてみる機会をなかなか設けられずにいたのですが、「開館直後の賑わい」や「年末年始休暇関連の変則的な開館時間」というような、やや落ち着かない要素が気にならない時期でもあることから、一寸訪ねてみることにしました。

↓階段を上がると入口扉が在るのですが、何か非常に立派な入口です。
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ここは“ヒストリーパーク”と名付けられている施設で、「公園を散策するような気軽さで、ロシアの歴史を学ぶ」という場になっています。

入館は無料です。主に冬季には活躍する外用の上着等を預かる場所も完備していて、無料で利用可能です。逆に言えば、管内の見学には存外に時間を要するので、外用の上着を安心して預けられる場所はなかなかに有難いです。

事前には然程の知識も無かったのですが、この館内を順路に従って見学すると、ロシアの起源と言われる<ルーシ>が起こったような時代から始まって、エリツィン政権やプーチン政権という「最近の時代」に至るまで、「2千年の時間を超える散策」というような感じを体験出来ます。

紹介されている内容は、言ってみれば「ロシアの“歴史の教科書”に出ているような内容の殆ど全部」というような内容です。また、日本国内では例えば『○○の歴史』というような具合で、国内の本、または外国で出たモノの翻訳で外国の特定の国や地域の通史を扱った本が在り、「ロシアの」というモノも見受けられます。その種の本で読むことが出来るような内容に関して、この“ヒストリーパーク”の展示では「殆ど全部」が観られるような感じです。

通史の中での時代区分には色々な方法が考えられます。「X世紀」、「1XY0年代」というような年代の数字で区切る、「○○朝」、「○○王国」、「○○政権」と主要な支配勢力の時期で区切る、或いは首都が置かれた場所の名を並べて区切るというように色々なやり方が在ります。が、ここでは「○○公の時代」、「皇帝○○の時代」と人物に主眼を置くような方式で時代区分が示されています。

“ヒストリーパーク”で「○○公の時代」、「皇帝○○の時代」と人物に主眼を置くような方式で時代区分が示されて、西暦の年代がその展示場所に記されるようなやり方を採っているのは、館内の通路の壁に多くのスライドが示され、多数据えられたタッチパネルで「歴史の中で伝えられる多くの人達の物語」を伝えることが、展示の方針の柱のように見受けられるからであると思われます。

“ヒストリーパーク”では、<ルーシ>が起こったような時代やキリスト教が容れられた時代、ロシアで現在使われている文字の起源というような話しから、イワン雷帝や<大動乱>、ロマノフ朝の登場と歴代皇帝の治世、そして革命や2つの世界大戦やそれ以降と「2千年の時間を一気に超える」ような空間に入り込むことになります。19世紀以降の展示に関しては、「歴史のページに姿を見せるサハリン」というような内容も出て来ます。

「新しい施設が“どういう場所”なのか?」ということで漫然と立寄った感だったのですが、タッチパネルで出て来る説明等を沢山読んだのでもなく、「一通り観る」感じで中を廻ったのでしたが、何か「凄く大きな余韻が残る」というような場所でした。

ロシアでは、モスクワやサンクトペテルブルグ等に昔の貴重な文物を所蔵していて、それらを順次展示しているような場所が在る訳ですが、この“ヒストリーパーク”にはそういう貴重な所蔵品が在るでもありません。画像・映像やテキスト情報や音声情報等を介して、「ロシアの長い歴史を追体験する気分になる」ような場所です。

ロシアに在って、「由来がよく判らない祝日?」ということになる場合も在る祝日に<国民統一の日>が在ります。“ヒストリーパーク”は、その<国民統一の日>の頃にオープンしました。

この<国民統一の日>は、<大動乱>と呼ばれた17世紀初めの混迷の状況下、ロシアを占拠したポーランド軍を国民軍の尽力で撃退したという故事に因む祝日であるとされます。(勿論、“ヒストリーパーク”でも<大動乱>という展示コーナーが在って、時代の状況等を学ぶことが出来ます。)他方、「11月の祝日」として定着していた<革命記念日>が廃されたことで、「その時季の祝日」として、革命以前の時期に祝われることが在った旧い祝日が復活したようでもあります。

そういう<国民統一の日>に登場した“ヒストリーパーク”には、「永いロシアの歴史への想い」、「ロシアの歴史の中での私達の地域たるサハリンの“位置”?」というような問題意識が滲んでいるように見受けられました。

筆者個人は、「ロシアでこんなことをやっていた時代?日本史では?」等と考えながら見学した一面も在りました。例えば「戦国の余燼」というような感も在る、かの<大坂の陣>が起こっていたような頃、ロシアでは<大動乱>が終結に向かってロマノフ朝が登場したような時代だったのです。日ロ関係の出来事では、例えばかの大黒屋光太夫が願い出て謁見したのは女帝エカテリーナ2世で、彼女の治世のことも紹介されています。そういう具合に視ると、非常に面白いという側面も在りました。

その他、1980年代や1990年代頃の情報も豊富で、「あっ!!これ!!」と強く記憶に残っているような画像や映像の紹介も在り、強い印象を受けました。

それにしても、この“ヒストリーパーク”に入ると「“教科書”の世界の中に入り込んで不思議な旅をした」というような感覚に包まれます。現時点で、展示内容はロシア語のみですが、意外に面白い場所です。

この場所は「児童生徒の学習の場」という性質も色濃いように見受けられますが、普通の大人が訪ねても面白い場所だと見受けられます。実際、一緒に訪ねた稚内市サハリン事務所のスタッフは、「面白かった。入場無料で好い。休日に友人を誘って、また行く!」としていました。

“ヒストリーパーク”の展示室内は、スライドのようなモノを投射する場合に適切な、やや落とした照明になっています。そんな中で、過ぎる程に豊富な情報が供される、「“教科書”に入り込んでしまった?」という展示の場を通り抜けて出口に至ると「“時間の旅”から“今日”に戻って来た!」と感慨のようなモノが沸き起こります。

この“ヒストリーパーク”は、例えば「サハリン滞在の中で思いがけず時間が出来た」というような場合に、開館中であれば好い立ち寄り先になるかもしれません。休館日の月曜日を除き、午前11時から午後6時の開館ということです。
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展示内容の更新・追加が行われた<戦史博物館>(2018.02.20)

パベーダ広場の大聖堂の横に建つ宮殿のような建物は、正式名を<展示・記念複合施設 “勝利”>とする博物館です。

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↓長く「展示準備中・内装工事中」という具合で観られなかった状況から、「各指定時刻のガイドツアーのみ」という体制ながら観られるようになったと訪ねてみた経過が在りました。
>> <展示・記念複合施設 “勝利”>(戦史博物館)(2017.09.19)

「観られるようになった」と訪ねた際には、1945年のサハリンでの戦闘に関連する事項の展示、史料学習コーナーのようなモノ、占守島の戦いに関する等身大の人形や本物と見受けられる車輛も使ったディオラマが在りました。他方、施設は「戦史」に関して広く紹介することを目的としており、第2次大戦の他、日露戦争のような戦争や、アフガニスタンやチェチェンのような近年のものまで、19世紀後半から20世紀のロシアが関わりを持った戦争、或いはサハリン州の区域での出来事を丁寧に工夫しながら紹介することを目指しているとも聞きました。

この程、「新しい展示の追加」が行われ、従前の1945年のサハリンでの戦闘に関連する事項の展示も大幅に更新され、随分と様子が変わりました。

従前は「各指定時刻のガイドツアーのみ」という体制でしたが、現在は「随意に見学」ということも出来るようになっています。占守島の戦いに関するジオラマは「ガイドツアー」のみで、それを含む見学は入場料が300ルーブルですが、それを除く各展示を随意に見学する場合の入場料は100ルーブルです。

「新しい展示の追加」と聞いたので、最初にその新しいモノを目指しました。

<日露戦争>に関連する展示が設けられていました。展示はやや小規模な感じではあったものの、なかなかに興味深い内容でした。

ビデオや当時の画で日露戦争のあらましが紹介されていましたが、その他に「1905年に上陸した日本軍の侵入経路と、ロシア軍との交戦経過」の概略、巡洋艦<ノヴィク>のサハリン入りというようなことが紹介されていました。

日露戦争の末期にサハリンの占領を目指した日本軍は、現在では「コルサコフ郊外のプリゴロドノエのLNG工場が視える辺り」ということになる女麗(めれい)に上陸し、現在のユジノサハリンスク市の一部に相当するウラジミロフカへ北上し、やや西のダリネェーでロシア軍と交戦に及んでいます。そうした経過が、モニター状なモノに地図や文字を映す型でしたが、紹介されていました。日露戦争に関しては、少し古い映画の『二百三高地』に描かれたような、大陸での大規模な激戦が知られていますが、サハリンでも地上の戦いが在ったのです。

巡洋艦<ノヴィク>に関しては、船の大きな模型やモニターに映るCGも含む解説図版が色々と在り、加えて艦上で砲手が戦闘に参加しているイメージの、等身大の人形を使った小規模なジオラマが造られていました。この艦のことが非常に大きく紹介されていました。

巡洋艦<ノヴィク>は、旅順(ロシアでは「ポルト・アルトゥール」と呼ばれる)攻略を目指して日本軍が陸海の戦力を周辺に展開していた中、「ロシア艦隊が増援を迎える前に駐留していた艦隊に打撃を与えよう」という思惑で待ち受けていた日本艦隊とロシア艦隊とが交戦に及んだ「黄海海戦」に参加した艦です。ロシア艦隊が大打撃を被り、行動可能な状態で残った艦が方々に散った中、<ノヴィク>は単独で日本列島の太平洋側を北上し、サハリン近海に到達します。そしてコルサコフの沖で日本艦との交戦に及んで敗れ、擱座しています。

巡洋艦<ノヴィク>に関しては、「最後まで単独で闘い続けた」という文字どおりの“孤軍奮闘”のヒーローというイメージが在るのかもしれません。因みにこの<ノヴィク>は、サハリンで擱座した後、日本側で引揚げて改修し、樺太の川に因んで<鈴谷>と命名され、日本海軍によって運用された経過が在るということです。(序でに加えておくと、日露戦争後の時代、<ノヴィク>が<鈴谷>になった例のような、「ロシア艦隊出身の日本艦」は幾分見受けられました。)

こうした<日露戦争>の展示の他、ロシアにとっては少し重い意味が在るアフガニスタンやチェチェン等、比較的近い時代の戦争の様子を紹介する展示も在りました。言わば<現代の戦争>という展示です。

この<現代の戦争>という展示では、アフガニスタンの戦地に設けられたソ連軍のテントと見受けられるモノが据えられて、兵士達が使用した武器や野戦服や、従軍記章(勲章)や資料写真が多く在りました。「チェチェン紛争関係の報道で視たような?」という写真も幾分在って、多少生々しい感じもしました。

少し象徴的なのは、地球儀が据えられ、第2次大戦以後の比較的知られている様々な戦争を紹介するパネルが周囲に置かれているという展示でした。歴史と共に、残念ながら多くの犠牲が払われる戦争も付いて回っているという感でしょうか。

そして、本来は最初の順路である筈なのですが、「あの場所は以前に観た」と後回しにした、1945年のサハリンでの戦闘に関連する展示場に入り、少し驚きました。

従前は、ソ連軍がサハリンでの軍事行動に踏み込んだ経過や、関係者に関する史料が少し視られるコーナーという感じだったモノが一新されていました。入口辺りには、日露戦争と戦後の経過のあらましが紹介されるビデオが在って、サハリンに在った国境で「国境を守備する兵士」という日本側、ソ連側の等身大の兵士の人形を使ったイメージの展示が行われていました。そしてソ連軍が軍事行動に踏み込んだ経過、当時のソ連軍の計画、そうした計画で実施されたモノやされなかったモノ(「北海道上陸」という実施されなかった計画を紹介する展示に注目してしまいました。)、1945年9月2日の日本の降伏文書調印のこと、樺太のソ連化のこと、1940年代後半に入った頃のサハリンの街について、往時のソ連兵の服装や装備を等身大の人形で紹介する展示等、非常にボリュームが増えて多彩な展示になっていました。

ここの展示に関しては、サハリンではなかなかに評価が高い、樺太時代の研究で知られる方等の多くの専門家が携わって、随分と内容を練りながら、「多少時間を要しても…」と充実した展示を目指している様子が伺えます。そのうち、「更に新しい展示」というようなことにもなるかもしれません。

少し前に、稚内を訪ねた経過が在って、郷土資料館ということになる<北方記念館>を御案内したこともあるサハリンの方に会った時、その方が言っていました。「ロシアと日本との間で起こった出来事に関して、一部は“ロシアの歴史”として聴いたり読んだりしている。が、それらに関して“日本の歴史”として、全然知らない視点で語られているというモノには稚内で全く初めて触れた。それが忘れ難い」とです。恐らく、こういうことに関しては“逆”も在り得るように見受けられます。

<戦史博物館>に関しては、展示内容について、現時点ではロシア語による情報のみです。大きな街の展示施設で見受けられる“音声ガイド”のようなモノが好いのか、或いは一部の展示施設に見受けられる「外国語による展示解説の冊子」のようなモノが好いのか、方法は色々と在り得るでしょうが、ロシア以外から来る「国外の人達」に向けた発信が在っても善いかもしれません。

しかしここは、既に「児童生徒の学習の場」、「社会人の研修の場」として一定の人気が確立していると見受けられ、訪ねた時には児童生徒のグループや、何かの制服を身に着けた大人のグループが見学に訪れていました。

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※ 展示室内で「カメラの使用は御遠慮下さい」ということだったので、壮麗な感じがする建物内の吹抜けの画を掲載しておきます。
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スキー場<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(山の空気)の夕べ(2018.02.17)

「市街に非常に近い」という特長が在るユジノサハリンスクのスキー場ですが、施設内に在るカフェで、街の中の店で見受けられるように、土曜日の夜にバンド演奏が入るという話しを聞きました。

流石に、スキー場の戸外で楽器の演奏等は出来ませんから、当然ながらカフェの建物の中で行われます。そこにバンド演奏を聴きに行くとすれば、普通にスキー場を利用する中でカフェに入る、またはゴンドラの券を求めて上に上がるということになります。

スキー場<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(山の空気)のゴンドラですが、スキーやスノーボードをするのでもなく、「上に上がりたい」というだけの利用も可能です。筆者自身、それを何度かやっていますが、同じような利用をしていると見受けられる他の方も視掛けます。

今般、施設内に在る<リアナ>というカフェでバンド演奏が行われると聞きました。山の中腹のやや上辺り、ゴンドラの乗換地点の辺りに建物が在ります。ゴンドラの券を売る窓口で「<リアナ>に行く」と申し出ると、120ルーブルの券が在りました。

↓「1本目のゴンドラ」を上がった辺りに看板が在ります。
スキー場の夕べ(2018.02 (2).jpg
↑記念撮影をしようというような人達に人気が在るポイントです。午後7時を少し過ぎた辺りで、少し静かでした。

↓何時の間にか「午後7時15分頃」でこういうような明るさになりました。
スキー場の夕べ(2018.02 (1).jpg

目指す<リアナ>を見付けてみると、スキー場を利用中の皆さんが食事を摂ったり、飲物を飲んで休むような、100人やそれ以上が入れるような場所で、基本的にカフェテリア方式の店でした。更に、カフェテリア方式で料理や飲物を頼む場所の他に、半分独立しているようなコーヒースタンドが在り、街の中で視掛けるカフェの「持ち帰り」のコーヒーのような感じのモノが売られていました。街の中のカフェに多々在るようなマシーンで淹れるコーヒーでした。

少し考えて、コーヒースタンドのコーヒーを求め、カップを手に適当な場所を探しました。すると、運が好いことに演奏をするバンドの目の前、前に遮るモノが無いような場所に空席を見付け、その場所に陣取りました。

↓気に入っているバンドである<アブソリュート・ジャズ・カルテット>の演奏を悠然と愉しむことが叶いました。
スキー場の夕べ(2018.02 (3).JPG
↑今回の編成は、ベース、ドラムス、リードギターとサイドギターでした。画で、立ってギターを演奏しているのがリードギターのドミトリー・カプスチュクさんで、彼の演奏が「カッコウいい!!」のです。

音楽を夢中で聞いて、何時の間にか時間が少し経ち、演奏が終わったので外に出ました。

↓午後9時を少し過ぎたような頃です。
スキー場の夕べ(2018.02 (4).jpg
↑暗い夜空に、スキーコースの一部の向こうに灯りが点いている街が浮かんでいるかのようです。

この後、ゴンドラで下に下りました。ゴンドラは平日は「9時から21時」で、休日は「9時から22時」で動かしているようです。

下に下りてから街を歩いて住まいへ引揚げましたが、「スノーボードを楽しんだ帰り道」と一目で判る、「ウェア姿でボードを抱えている」というような人達を存外に多く視掛けました。

スキー場の施設内が、何やら「街の中の延長線上」のような感じにもなっているという様子が、凄く興味深く思えました。
posted by 稚内市サハリン事務所 at 08:00Comment(0)訪ねる