広場に残る「シベリア出兵」の経過を伝えるプレート:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)

全く速いもので、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねて非常に興味深かったという出来事が在ってから、もう直ぐ1ヶ月です。この間、「寒くなる方」へ着実に季節は進みました。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねた経過と彼の地での見聞に関しては、このブログでも御紹介していますが、一つ補っておきたい事項が在ります。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも、例によってレーニン像が在ります。
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↑像のレーニンが着ているコートに関して、立体的に視えるように工夫された表現が行われていると、少し興味深く像を観ました。

このレーニン像が在る広場は、「中央広場」ということで、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの都心部の真中と考えられています。「都心部の真中」とは言っても小さな街のことで、少し広い場所を囲むように2階建て程度の建物が幾分見受けられ、レーニン像の向こうが街の文化センターで、後は若干のベンチが並ぶばかりです。広場を囲む建物の一つに、何やら鳩の群れが棲んでいるようで、時々群れが一斉に飛んでいて壮観でした。そういう鳩に餌を与えるような人達も見受けられましたが、訪ねた日は好天であったことから、広場では子ども達からその保護者、若者からお年寄りまで思い思いに寛いでいました。

小さな街であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、動き回っている中で一息入れるのに好適な喫茶店的な場所が見当たるでもありませんでした。そこで、近くの店でミネラルウォーターのボトルでも求めて、この広場のベンチに腰を下ろして休んだり、広場の様子を視て一息入れていました。

↓そういう中でこういうプレートを見付けました。
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プレートを見付けて、最初は「1925」という数字が眼に留まり、「1925年に何か出来事?」と思い、プレートを注視しました。

プレートには「1925年5月15日 日本による北部サハリン占領からの解放を祝う催事がここで行われた」と在ります。

この「日本による北部サハリン占領」というのが、日本国内では然程知られていないのかもしれません。

ロシア革命の後の混迷の中、日本を含む各国がロシアに軍を派遣した「シベリア出兵」という出来事が在りました。そうした経過の中、サハリンの対岸に在るニコラエフスク・ナ・アムーレで、共産主義系の勢力が多数の在留日本人を含む住民を虐殺して街を破壊してしまうという「尼港事件」が発生します。日本は“保障占領”としてサハリン北部に軍を進め、1925年に日ソ国交が樹立されるまでの約5年間の占領を続けていました。

プレートに在る「日本による北部サハリン占領からの解放」というのは、この1920年から1925年の占領が終わったということを指し示す訳です。

現在は<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の一部となっている、「サハリン初の電信局」の開設に尽力して革命後は推されて街の指導者になっていたツァプコが住んでいたという家は、この占領の時期に日本軍関係者が利用していた経過が在ると聞きました。

↓「シベリア出兵」の頃の1925年までの日本の動きに関しては、2016年に出ている下記の本に詳しく紹介されています。

シベリア出兵 - 近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書)




アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、北緯51度の景勝地も見受けられるような中に在る、古くからの経過を伝える独特な雰囲気を有する街でした。19世紀の帝政ロシアの下での色々な事、揺れ動いた20世紀の色々な事が伝わる地域です。他方、「やや不便…」な場所であることも否定出来ませんが、それでも何時か再訪してみたいと思わせてくれる、何か名状し悪いものが在ります。

「少年志願兵」のモニュメント(2017.09.23)

↓衣装が「少し昔風?」な感じで、何か「古き良き時代の少年達」という雰囲気の、少し惹かれる彫像を見付けました。
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↑アレクサンドロフスク・サハリンスキーの<生神女寺院>の近くに在るモノです。寺院の敷地内から「あちらに彫像らしきモノ?」と視える位置関係に在る像で、後から近寄って視たのでした。

↓像はこういう具合に「高台から海に注ぐ川が造る独特な地形と海を望む」と同時に「街並みが少し覗く」という場所に建っています。
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像の下のプレートには人名が多数並んでいるのですが、その標題として「ЮНЫМ САХАЛИНЦАМ - ДОБРОВОЛЬЦАМ」(ユーヌィム サハリンツァム―ドブロヴォリツァム)と在ります。これは「サハリンの少年志願兵に捧ぐ」という意味です。

「ドブロヴォリツ」(добровольц)というのは、直訳すれば「善意の人」ということになりますが、意味合いとしては「自発的な意志で行動する人」ということになります。「自発的な意志」ということで、ここでは「志願兵」と訳出すべきなのです。

第2次大戦期、徴兵年齢に達していない少年達の中に、「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」が多く見受けられたと言います。当時のサハリン、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを中心とする地域からもそうした「少年志願兵」が旅立ちました。そして、彼らの殆どは消息を絶ってしまいました。多数の戦死者や、戦禍で命を落とした夥しい人達の中で、彼らは命を落としてしまい、生還出来なかったものと推定されます。

ソ連時代の終わり頃、1980年代の末に近い頃から“戦中秘話”とでもいうような「それまで余り伝えられなかった戦時下の色々な事」に関して、記録を残すべきであると生存者へのインタビューを基に綴ること等が始まり、それが公刊されたことを契機にそうした動きが拡がる、或いは古い未公開資料を精査するような研究が始まる等、色々な動きを受けて様々な事が伝えられるようになりました。

「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」の中には、どういう運命を辿ったのか仔細が不明なまま消息が判っていない人達も大勢居るようですが、そうした人達の中で氏名が判っている人達の名を挙げながらこうしたモニュメントを建て、理想に散った少年達を悼むと同時に「そういう時代が在った」ことを伝えようとしていることになります。

↓日が傾くような頃になると、西日に染まる空と海が視えるような位置に「少年志願兵」のモニュメントは佇んでいます。
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↑或いはアレクサンドロフスク・サハリンスキーの「らしい感じ」な風景が視える場所に、生還出来なかった少年達をイメージした像が佇んでいる型です。

実物を見れば、コンクリートの台座に経年変化らしきものが見受けられないのが判りますが、モニュメントが建ったのは近年のことであるそうです。近年の、古い未公開記録の研究の様なところから、こうしたモニュメントを設ける計画が持ち上がったのかもしれません。

単純に「少し惹かれる少年達の彫像」と眺めていたのですが、「平和の尊さ」に想いを巡らせることになりました。

生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)

アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着し、押さえてあった宿に荷物を置くことを念頭に、宿の住所を探そうとする中、バスターミナルから緩やかな上り坂を進めば、直ぐに「少し凝った型?」の屋根が眼に留まりました。

↓通から視れば、こういうように視えます。
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↑丁度、敷地への入口辺りの門が開いていたので、その辺りに佇んで「不思議な型の屋根?」と建物を眺め入ってしまいました。

これはロシア正教の寺院で、「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というそうです。“寺院”を意味する“Храм”(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方です。

「生神女」(しょうしんじょ)とは、正教で言う「神の母」という意味の用語です。カトリック等で言う「聖母マリア」というような概念とは少し定義が違うようで、日本でも活動しているロシア正教会では「生神女」と言っているようです。

↓ここに着いた時は、寺院への参拝を受け付けている土曜日の午前中だったことから、敷地に入ってみました。通に面していない側に出入口が設けられていて、寺院の正式名称のプレートも掲出されています。
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この寺院は、1993年から建設して現在に至っているとのことです。サハリン各地で見受けられる事例ですが、“ポストソ連”とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中での建設であったと見受けられます。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この寺院は「復興」と考えられているかもしれません。博物館等に古い写真が展示されていますが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設されたという立派な寺院が在りました。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだといいます。そして1930年に、用地を他用途に振り向けるべく建物は取り壊されてしまいました。

永い年月を経て、体制も変わった中で1993年に現在の建物の建設ということになって行きます。取り壊されてしまった寺院は、現在の建物が在る場所に在ったのだといいます。そういう意味で「復興」というようにも見受けられるのです。

↓それにしても、色々と組み合わさったような不思議な形状の屋根です。
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↑往年の寺院ですが、そちらの方も不思議な形状の屋根でしたから、現在の建物を設計した際にもそのイメージを大切にしたのかもしれません。

「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を“復興”という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ということのように想像しますが、当初は屋根の上に金色に輝く“クーポル”というモノが冠せられておらず、建設後に少し時日を経た2010年に登場したと聞きました。

↓屋根の外観は不思議な型ですが、屋根の下に形成されている堂内の空間は、この種のロシア正教の寺院としては普通な感じでした。
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サハリンでのこの種のロシア正教関係の施設ですが、現在視られる建物は「1990年代以降」のモノです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの「間違いなく、嘗ても寺院が在った場所に建つ」という事例は、やや少ないように見受けられます。他方、積極的に地域で活動をしていて、一定の存在感を示しているというイメージの場所も多く見受けられます。

↓午後に至り、少し離れた場所から独特な建物外観を眺めました。
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ソ連体制化の1930年に姿を消し、1993年に新たに登場したという経過の在る、独特な形状の建物をアレクサンドロフスク・サハリンスキー滞在の限られた時間の中で何度も眺めることになりました。

ジョンキェル岬の灯台を望む(2017.09.23)

外国の世界地図帳で、稚内の眼前に広がる「宗谷海峡」の名を頼りに、馴染んでいる北海道辺りの記述を視てみようというようなことを考えて索引に目を通すと、「宗谷海峡」という名が見付からない場合が殆どです。「宗谷海峡」は、欧州諸国等では「ラ・ペルーズ海峡」として知られているからです。

ラ・ペルーズはフランスの海軍士官で、世界周航を目指した人物です。1787年に日本海を北上してサハリン周辺からカムチャッカに至っていて、その時に幾つかの場所にフランスの人名に由来する地名を与えています。そうした情報は、カムチャッカ寄港時に下船した人物が陸路でフランスに帰国して伝えています。その地名が、現在でも受け継がれている例が幾つも在ります。

↓そういうことも在って、サハリンでもラ・ペルーズは「サハリンの様子を広く伝える活躍をした人達の一人」と認識されているようで、恐らくフランスの人達から贈られたモノと見受けられますが、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館にもプレートが飾られています。
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↑稚内の宗谷岬にも、宗谷海峡を欧州諸国等に紹介することとなったラ・ペルーズの事績を伝える記念碑が設けられており、これと同様なプレートが使用されています。

サハリン近海では、ラ・ペルーズ海峡の他にも、宗谷岬の対岸でサハリン島南端のクリリオン岬、ネベリスクの沖に浮かぶモネロン島、大陸側になりますが、現在ではサハリンからパイプラインで送り出されている石油を積出す港が設けられていることで知られているデ・カストリが、「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」として知られています。

が、アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」が在ります。それが「ジョンキェル岬」です。「ジョンキェル」は“Жонкиер”とか“Жонкьер”というような、「どういうように読む?」と思えるような綴り方になっています。

ジョンキェルという人物はラ・ペルーズよりも前の世代の人物ですが、ラ・ペルーズの同郷人でフランス南西部のアルビ出身です。海軍士官出身で<ヌーヴェル・フランス>と呼ばれていた北米植民地―現在のカナダのケベック州から米国のルイジアナ州にまで至る広範な地域でした。―の総督と務めていた人物です。因みにラ・ペルーズの経歴を視ると、彼は1754年から1763年の<7年戦争>に従軍し、北米で活動を行った経過も在ります。

このジョンキェルの名を冠した岬は、アレクサンドロフスク・サハリンスキーと南隣のドゥエという集落との間に在り、往来の利便性を向上させるために流刑囚が工事に従事してトンネルを掘った経過が在ります。アレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在したチェーホフも通っているという場所です。

ジョンキェル岬は、<三兄弟>の岩が視える海岸を南側に少し進んだ辺りで、流刑囚が掘ったというトンネルの入口も海岸に佇めば視えます。が、訪ねたタイミングが満潮かそれに近い状態であったようで、途中の海岸が海面下となって訪ねることが出来ませんでした。

訪ねられなかったのが非常に残念でしたが、とりあえずその日の夜を明かすために押さえた宿に引揚げ、タクシーをお願いして夕刻の暗くなってしまう前に訪ねてみることにしたのでした。

宿の人がタクシーの受付―何人かのドライバーの携帯電話であるようでした。2回か3回電話を架けて、応答が在った箇所と話しを始めていました。―に電話連絡を取ってくれました。電話をした際に「“ホテル”ですが…」と言って、それで話しが通じてしまう状況でした。宿には<ホテル トリ・ブラター>と景勝地の<三兄弟>を意味する立派な名前も在るのですが、街に「ホテル」と名が付く場所は結局そこだけであるようでした。

とりあえず「午後5時に…」ということにしていて、多少遅れましたがタクシーは現れました。ドゥエという南隣の集落を訪ねる場合の片道が500ルーブルだというので、それに準じる型の往復1000ルーブルということでお話しが纏まりました。

「灯台を視に行って、写真を撮りたい」と言えば、タクシーの運転手さんは説明してくれました。「車で本当に灯台の間近に行くことは困難だ。灯台そのものの場所に上がる、車が上がる道路は無い。が、灯台と海を見渡す高台であれば行くことが出来る。但し、一般車輛が通行可能な道路の端に車は停めて、特殊な車輛でもなければ入り悪い脇道を少々歩かなければならない。歩くのは100mとか200mという次元だと思う」ということでした。「それは大変に結構!行こう!!」とアレクサンドロフスク・サハリンスキーの街中から発車しました。

傾いた陽からの独特な光線を受ける中、街の西寄りから山道に入り、ループを描くように上下しながら、また車は砂埃を巻き上げながら進み、脇に入る小路が在る場所まで進みました。30分弱は乗車していたような気がします。

運転手さんは一緒に車を下りて、「灯台と海を見渡す高台」へ案内してくれました。少し風が強く、それがやや冷たい、西日に光る海が視える、足元が悪い辺りに至りました。「ここだね…こっちに多少進めるが、行き過ぎない方が好い…自分は車で待つから…お気を付けて…」と運転手さんは引揚げ「かたじけない…」と彼の背中を見送りました。

↓その風にも負けず、足元がやや悪いとも思える中で眼下に視た光景です。
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↑断崖と、断崖に貼り付くような草や木と、砂浜に岩や海と、空や流れる雲が独特な傾く陽が放つ光線の中に浮かび上がる様です。画の中に、現場で感じた風が流れているような気さえします。

↓ジョンキェル岬の灯台は1864年―日本史では幕末の頃でかの<池田屋事件>や<蛤御門の変>が在った頃。世界史では米国の南北戦争の時期。―創建で、2013年に自然災害で壊れてしまった後に再建されたのだといいます。
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↑創建年次を想うと、チェーホフがアレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在した1890年には、既に灯台が在ったということになります。実はユジノサハリンスクの<A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館>でも、灯台のことは紹介されています。往時は完全に木造の建物だったようですが。

↓或いは、間近に寄る以上に「うゎっ!」と驚きの声が上がってしまうような雰囲気が在る風景だったかもしれません。
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暫らく写真を撮った後、運転手さんが待つ道路の端に引揚げ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街へ戻りました。

今般のアレクサンドロフスク・サハリンスキー訪問では、とにかく天候には恵まれました。「海岸を歩いて灯台へ」というのは、在るのか無いのか判らない“次”への課題ということで、とにかく「観られて善かったぁ!」という光景に出くわすことが叶ったのは大変に幸いでした。

<三兄弟>:アレクサンドロフスク・サハリンスキーの象徴的な存在の岩(2017.09.23-24)

「市章」と呼ぶのが最も判り易い言い方になると思いますが、サハリンで“地区”と呼ばれる各自治体では、各々の紋章を定めています。

稚内市との友好都市交流を続けているネベリスク、コルサコフ、ユジノサハリンスクでも各々にそういうモノを定めています。稚内での催事でも、それらを示すような場面が在りますが、各々に工夫をした紋章で、なかなかに美しいモノです。そして、ネベリスクが“トド”を図案に入れている例が在りますが、「地区の特色」を想起させるユニークな図案も多く見受けられるものです。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーではこういう市章を使っています。
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一瞥して「山?」というように、または「チェスの駒?」というようにも思いましたが、何れでもありません。

↓こういうモノの図案なのです。海から突き出ている3つの岩です。
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このアレクサンドロフスク・サハリンスキーの海岸に突き出ている3つの岩は<三兄弟>(Три Брата)(トリ ブラター)と呼ばれて古くから親しまれているものです。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の一部を成す「ツァプコの家」ですが、元々は「港での無線連絡に関する仕事」のことを顧慮して現在も在る場所が選ばれていたようで、「ツァプコの家」を起点にすると港の側、その少し先の<三兄弟>が視える海岸へは行き易い感じです。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの港ですが、博物館で古い写真を視ると「桟橋が築かれていて、小さな船で沖の大き目な船との間を行き交う」ようになっていました。現在でも大型船が出入可能な状態ではない様子です。大型船が停泊している様子は視えませんでしたし、大型船のためと見受けられる施設も視えませんでした。

「ツァプコの家」の直ぐ先に、海へと注ぐ川に架かった橋が在り、そこを渡って進めばアレクサンドロフスク・サハリンスキーの港に至ります。「廃工場?」というような建物、「廃工場風だが、何かやっている?」という感じの場所、少し古めかしい感じがする場合も在る戸建ての民家が文字どおりに点在しているような中、車輛が通り抜けると多少の砂埃が舞い上がる道路を進めば水辺の風景になります。

やがて港が在ります。「アレクサンドロフスク・サハリンスキー・モルスコイ・ポルト」(アレクサンドロフスク・サハリンスキー海洋港)の略称と見受けられる“АСМП”(アーエスエムペー)という文字が在る大きな門扉が視えたのですが、その辺りに「グルーッ!」と唸る犬が3頭位居て、繋がれているのかと思えばそうではなく、いきなりこちらに吠えながら駆けて来るので、別段に悪いことはしていないにも拘らず、慌てて走って逃げました。

「物騒な感じの犬だった…」とブツブツ言いながら更に進むと海岸が視え、好天の土曜日だったことから、散策している家族連れや、ゆったりしている人達の様子が視える平和な光景が眼前に拡がりました。

↓人為的に造ったのではなく、自然の造形で、こういう具合に「寄り添う兄弟」のように3つの岩が並ぶのは不思議なことです。
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海岸辺りに岩が突出るように立っていて、その景観が親しまれている例は日本国内でも、他の国や地域でも在るように思いますが、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーの例のように「綺麗に3つ並ぶ」のはやや珍しいような気がします。

↓望遠ズームでも画を撮っておきました。海岸からは思った以上に距離が在るように視えました。
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「大きな看板をビルの屋上に設置」というようなことをすると、“大きさ”が判り悪くなる場合が在ると思います。この岩も、実際にはかなりな大きさなのだと思いますが、「海岸線から微妙な距離で、広々とした海に突出し、背後も広漠とした空」という条件のために、大きさが判り悪くなっています。

それにしても、視れば視る程に「海の上に“石庭”を造ったかのようだ」と思えて、少しゆっくりと視ていました。

訪ねた際には、満潮かそれに近いタイミングだったのかもしれません。思う以上に海水が岸に迫っていて海岸は狭く、打ち上げられた海藻に覆われているような箇所も多く、少し南寄りに相当する辺りまで「歩いて行ける」と聞いていましたが、途中からそこは海面下になってしまっていて、余り進むことが出来ませんでした。

この<三兄弟>に関しては、少し違う角度からも見ました。

↓別な方角から回り込むような型になりますが、“АСМП”(アーエスエムペー)というエリアの少し北側に在る砂浜に出てみると、前日とは違う角度で<三兄弟>が小さく覗きました。
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↑こうやって海岸部の断崖と並んで比較が出来るように視ると、<三兄弟>が存外に大きいことが判ります。

好天の休日という好い条件ではありましたが、この<三兄弟>が視える辺りに行くと「存外に地元の家族連れと見受けられる人達が多い」ような感じだったことに少し驚きました。市章に使う程度の「対外的に“発信”するような代表的景勝地」が、地元の人達にも愛されているという様子が判ります。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(2017.09.23)

「サハリンで最初の州都」という経過を持つアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、“博物館”と名が付くモノについては「1896年に当時の総督令によって開設された博物館を嚆矢とする」と考えられているようです。その古い博物館に関しては、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館に“移転”して伝統が引き継がれていると考えれれているようです。

現在、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで「博物館」と言えば<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(Историко‐литературный музей "А.П. Чехов и Сахалин")のことになります。

これは1890年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸した作家のチェーホフが「立寄っている」と伝わる古い建物を修繕した建物での展示、そこに並んでいる流刑地時代の施設を再現した展示施設、更に少し離れた古い住宅の建物を利用した郷土資料館を総合した、正しく「歴史文学博物館」です。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、川がタタール海峡に注ぐような場所の高低差の在る複雑な地形の場所に拓けた坂の多い街です。ソ連時代以来の集合住宅の建物や、地区行政府庁舎や、“ポストソ連”な1990年代に建てられたと見受けられる教会が在る辺りから坂を下りると「チェーホフ通」という住所に至ります。

その「チェーホフ通」には、何やら年季が入った建物が散見するのですが、ここに3ヶ所に分かれている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の2ヶ所が在ります。

↓チェーホフ通を進み、「通の先も高台のようになっていて、何やら年季の入った建物が在る」と思いながら進んで行くと、こういうモノに出くわします。
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↑板を組み合わせて塀が設えられていて、通用口のような扉が開いていて「何らかの展示施設」と見受けられます。

↓中にはこういうような道標が立っていました。
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↑方角が正しいのか否か、目安になるモノも無いので判りませんが、「サンクトペテルブルグ」、「ウラジオストク」、「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」というような地名が在ります。ロシア革命以前の古いアルファベットによる綴り方が用いられています。その地名の後ろにはヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在る古い単位が用いられています。アレクサンドロフスク・サハリンスキーにこういう施設が実際に建てられていた19世紀末辺りであれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったそうです。地名が出ている各地への距離は、ここに在る数字の感じで正しいと思われます。

実はこういう展示施設がここに在ることを事前には知りませんでした。道標が不思議だと思って眺めていれば、中から係員が出て来ました。有料の展示施設であるということで、中に入って券を求めました。入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルの入場料でした。

↓この施設は「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現したモノのようです。
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施設内には、流刑地時代の様子を示す展示が在りました。当時の港の様子や道路建設の様子を紹介する写真も在り、「正しくティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かって来たバスで通った場所!」と感心しながら見ていました。そして、アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエへ引揚げる際は、道路脇の地名表示を視て「あの博物館の資料写真に在った辺りがここだ…」と車窓をじっと視ていました。

↓そこから少し進んだ辺りの古そうな建物の壁に、プレートが掲出されています。
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↑プレートには「流刑地時代の1886年にリンズベルグによって建てられた建物で、1890年の6月から9月に統治に滞在したチェーホフが何度となく立ち寄っている」と在ります。

チェーホフが何事かを想いながら歩き回っていた場所に立つことが出来た訳です。

↓チェーホフが訪れた頃も、こういうような雰囲気だったのかと想像していました。
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この辺りに関しては、「チェーホフの時代」をテーマに“ミュージアムパーク”というような具合に整備をしようとしているように見受けられました。

↓直ぐ傍にサンクトペテルブルグの彫刻家が原型を創ったというチェーホフの立像が据えられていましたが、辺りは工事中でした。広場でも整備するようです。
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↑チェーホフは長身であったらしいですが、この像はかなり背が高い感じでした。

↓チェーホフも立ち寄っているという建物の中も資料館になっていて、色々と貴重なモノが溢れていました。
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入場料ですが、最初の「スタンカ」を再現した場所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。

辿って来た道を引き返し、往路で下った坂を上がり、教会の在る辺りに戻ります。そこから緩やかな下り坂を進み、バスターミナルが在る辺りを過ぎると古い家が在ります。歩いて、概ね15分弱というところだったでしょう。

↓1915年に建てられたという古い住宅です。ここは<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の3ヶ所の中の1ヶ所になっています。
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↑「チェーホフとその時代」に光を当てたチェーホフ通の施設に対して、もう少し「地域の歴史等」に光を当てる展示が在る場所です。

↓博物館に利用されている建物そのものが史跡です。アレクサンドル・ツァプコという人物が住んでいた経過が在ることを示すプレートが掲出されています。
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アレクサンドル・トロフィーモヴィチ・ツァプコはオデッサで学んだ電信技士で、サハリンのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで電信局を開こうとやって来て、博物館に利用されている建物で活動をしていました。1915年のことで、「サハリン初の電信局」ということになるそうです。

その後、革命の経過が在ってツァプコはサハリンでの革命勢力の代表者に選任され、サハリンを統括する地区の中心が対岸のニコラエフスク・ナ・アムーレということになった時期にもアレクサンドロフスク・サハリンスキーに残っていました。やがて「シベリア出兵」で日本軍がサハリン北部を占領した状況の中、1920年に「日本軍に連れて行かれる」という主旨の短いメッセージを残して消息が分からなくなったそうです。技術者として功績を挙げたことから敬意を払われ、人柄の好い街のリーダーとして愛された人物だったとのことで、消息を絶ってしまったことが惜しまれていたそうです。そんな経過から、建物の在る辺りの住所は後年「ツァプコ通」と名付けられました。

因みに、1915年に建てられたという「ツァプコの家」は、シベリア出兵に伴う占領時代には日本軍関係者が使用した経過も在るということです。

↓この「ツァプコの家」を利用した展示施設は、19世紀までに制作されたと見受けられるイコンのようなモノから、20世紀の生活道具等、そして戦時中のモノが在り、他にサハリン北部で見受けられる鳥獣の剥製が在るコーナーも在ります。
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この「ツァプコの家」を利用した展示施設に関しても、他の2ヶ所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。“共通入場券”とか、「3ヶ所全部の入場券」というようなモノは在りません。一体化したような体裁を取ろうとはしていますが、結局は「別々だった3ヶ所」ということかもしれません。それでも、3ヶ所で全く同じ様式の券が出て来ました。

<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は、3ヶ所各々は然程大きくないものの、3ヶ所を一気に巡るとそこそこのボリュームになります。土曜日に訪ねたのですが、グループでバスを仕立てて見学している何処かの生徒のグループも見受けられました。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの地元や近郊からなのか、サハリンの他地域からなのかは判りませんでしたが、<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は生徒達にとっても、なかなかに好い学習の場になっている様子でした。何処を訪ねても思うのですが、「学校の生徒のグループが見学している様子が見受けられる博物館や資料館」というような場所は“ハズレ”が少ないような気がします。

こういう博物館は、ゆっくりと視ていれば1日中でも時間を費やすことが出来るのかもしれませんが、筆者はアレクサンドロフスク・サハリンスキー到着の直ぐ後から午後の早めな時間までを費やすに留めました。午後は辺りの景勝地を愉しもうとしたのでした。幸いにも眩しい程の好天でもありました。

博物館自体も興味は尽きないものです。が、それ以上に辺りがどんどん拓かれていたようなチェーホフの時代に人々が行き交ったような場所、ツァプコの家のような20世紀の第一四半期というような激動の時代に生きた人々の息吹が感じられるような場所等に「自身で佇んでみた」という感慨が非常に深いもので、「訪ねて善かった」と引揚げてからも振り返っている状況です。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーへの道程(2017.09.22-25)

「週末を利用して、余り訪ねる機会が無い場所へ」というのは、他所の土地へ赴任すれば誰しもが考えることであると思います。筆者は「アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねてみたい」と長く考えていました。ユジノサハリンスクから550㎞程度―東京・大阪間よりやや近いですが、要する時間は遙かに長い感じです…―北西の小さな街で、日帰りはキツい場所ですが。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、帝政期、またソ連時代にサハリンの中心的な街であった経過が在ります。1890年にサハリンを訪れたことが知られる作家のチェーホフも、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸しています。そして1905年の日露戦争の終盤、加えて1920年から1925年のシベリア出兵の時期に日本軍が占領した経過も在る場所です。こういう歴史を伝える、なかなか好い資料館を擁している街です。更に、かのラペルーズが1787年に命名したというジョンキェル(Жонкьер)岬が近くに在って、古い灯台が崖の上に建ち、地域のシンボルのようになっている<三兄弟>(Три Брата)(トリ・ブラター)と呼ばれる岩が海面に突き出ている独特な景観も知られます。何か「サハリンという島」のイメージが詰ったような、そういう感じがしていました。

国や地域を問わず、「古くは地域の中心的な街で大きな存在感を示していたが、時代が移ろう中、行政の中心が別な場所になった、または主要な交通経路から外れて行ったというような事情で、古い資料等が残る小さな街としてひっそりと在るような場所」というモノが在るような気がします。或いはアレクサンドロフスク・サハリンスキーは、サハリンに在ってそういうような場所かもしれません。古くは州都でしたが、現在は主要な交通路も外れており、街の人口も1万人に届かない規模であるようです。

ユジノサハリンスクから、このアレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねるには、車をチャーターするような方法以外の公共交通機関利用での方法としては「ユジノサハリンスクとティモフスコエとの間の夜行列車を利用して往復。ティモフスコエとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとの間をバスで往復」ということになります。

ユジノサハリンスクからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かう場合、ティモフスコエでのバスの接続を考えると、遅く発車する方の夜行列車を利用する他に選択肢が無い感じです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ向かう場合には、ティモフスコエからの2本の夜行列車の何れかを選んでバスでの接続が可能です。ティモフスコエから遅い方の列車でユジノサハリンスクへ向かうのであれば、ティモフスコエで数時間散策するようなことも出来なくはありません。(※ 2017年9月現在)

ユジノサハリンスクでは、駅の窓口でユジノサハリンスク・ティモフスコエの列車の往復の切符を、そしてバスの券売所でティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへの片道乗車券を求めることが出来ます。

バスも列車も「1日2往復」です。買う時に特段に面倒ということではないのですが、列車に関しては「注意事項」が在ります。

列車の券を買う場合、ティモフスコエのような距離(ユジノサハリンスクから491km程度とのことです。)では、券を購入する際に「パスポートの提示」が求められます。加えて、パスポートの番号と氏名が券面に記載されます。これは「外国人だから」というのではなく、「乗客全員」です。そして券を求める時、窓口の係員に「券面の氏名やパスポート番号を検めて下さい」と言われます。乗車予定の列車で間違いないのかということに加え、この氏名やパスポート番号は確り確認しなければなりません。誤記が在ると、乗車を断られる場合が在るようです。実際、筆者の場合は名前のアルファベットの一文字が違ったので、申し出て訂正して頂きました。

↓こういうような券を手元に揃えた訳です。
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↑列車の券は、「モスクワ時間」の発車時刻が上の方、「サハリン時間」のモノが下の方に在り、号車番号と席番が入り、上述の氏名やパスポート番号も入ります。バスも「指定席」ということになっていて、席番が入った券が付いています。

因みに料金ですが、列車は片道が3918ルーブル40コペイカで、往復で求めたので7837ルーブル―端数のコペイカが“80”になって、切り上げになりました。―でした。バスは片道が227ルーブルでした。最近は1ルーブルが「2円弱」という感じなので、交通費は1万6千円強という感じです。(※ 為替レートは毎日変わっていますから、ここに参考までに記した価格は、筆者が券を購入した2017年9月の状況です。)

ユジノサハリンスクの駅では、ティモフスコエ、更にノグリキへ向かう夜行列車については、発車する30分位前から乗客をホームに入れています。

その時間帯にホームに出てみると、列車は待機中です。各号車の担当乗務員や警察官や駅の保安係が何やら大勢居て、乗客も存外に多く、見送りの人も大勢居ます。チョロチョロとして列車の写真等を撮っている雰囲気でもありません。とりあえず乗車する車輛を探し、そこの入口で乗務員に券とパスポートを見せます。薄暗い中ではありますが、乗務員は手持ちの名簿と、券面記載の氏名にパスポートの氏名を確認し、問題が無ければ「○番の席へどうぞ」と入口から乗車を促してくれます。

夜行列車には幾つの種類の席が在るようですが、「クペー」と呼ばれる寝台車がポピュラーです。

↓車内はこういう感じです。上下2段の寝台が向き合って、4人まで入ることが出来る部屋のようになったモノが並んでいます。
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↑1輛にその「4人部屋」が9つ並んでいます。36人まで乗車出来ることになります。

↓割当たった場所は、こういう感じになっています。
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↑適当に寝具を出して、横になって休むことが出来る仕組みです。今般は往復共に下段で、隣の人は居ましたが、上段の人は居ませんでした。幅も長さも、1人でごろりと寝るには十分だと思います。

↓車内で快適に眠り、朝にはティモフスコエ到着です。乗継のバスを探しながら、何となく列車の姿を写真に収めました。
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↑ティモフスコエの駅は街の中心からやや離れた場所です。駅名はどういう訳か<ティモフスク>となっています。

乗継のバスは駅舎の脇で待機し、続々と乗客が乗り込んでいます。求めて在った券をバスの乗務員(運転士)に示すと、書いて在る番号の席への着席を促されます。

↓ティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへは、山の中に拓いた坂が多い道路を進み、1時間20分程度です。距離にして60㎞弱ということでした。運行系統番号は503番で、バスの正面に番号が掲出されています。
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↑23人や24人が乗るようなタイプのバスです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、路線バスはこの型の車輛を運用している様子でした。他の型のバスは視掛けませんでした。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーのバスターミナルに到着しましたが、到着直後に復路の「アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエ」のバスの券を求めました。
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↑ターミナルの窓口は、日曜日には休業しているようです。他の曜日については、朝のティモフスコエからのバスが着くような時間帯には営業しています。因みに夕方の営業終了ですが、土曜日は早めに閉めているようでした。

こういうような行程でアレクサンドロフスク・サハリンスキーに辿り着き、電話予約で1泊お願いした宿に旅装を解き、秋の好天という中でアレクサンドロフスク・サハリンスキーの様子を愉しみました。